図1. 漢字マンダラ
徳
“徳”という漢字の旧字は“德”である。「彳(ゆく)+直(まっすぐ)+心(こころ)」からなり、真っすぐな心を持って歩むことから、「正しい心、身にそなわった品性」の意となる。“徳”を使った熟語には、徳義、徳育、道徳、報徳、仁徳、…がある。
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“道”と“徳”は、中国思想の代表的なキーワードである。儒家(孔子や孟子などの学派)と道家(老子や荘子などの学派)は、ともに道と徳を尊んだが、その意味合いは異なる。
孔子の言葉を記した論語には、次の言葉がある。「子曰く、道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に游(あそ)ぶ(人として正しい道を志し、すぐれた徳を守り、仁(思いやりの心)に寄り添い、芸(趣味や教養)を楽しむ人こそ理想だ)」(述而第七の六)。儒家においては、“人として”、人間社会を成立させる上での規範を「道」とし、そのために実践すべきものを「徳」としている。
それに対し、老子が書いたとされる『道徳経』(『老子』)51章では、次のように述べられている。「『道』が“この世の万物”を生み出し、『徳』がそれらを育て、それらの物が形となってそれぞれの役割を果たす事でこの世は成り立っている」。すなわち、道家においては、この世の万物に対して、「道」はそれを創造する根源であり、「徳」はそれを養い育み成長させる働きと位置付けている。
このように、孔子の道は形而下の人倫の道であり、いわゆる道徳や倫理の中で語られ、実践的なものをいう。一方、老子は形而上の人倫を超えたものを道とし、道とは万物生成の根源であり、自然現象を生み出す哲学的なものとしている。孔子のいう道や徳の方が具体的でわかりやすいが、「自然から学ぶ」という姿勢をもつと、老子のいう道や徳の方が、逆に腑に落ちてくる。
例えば、大自然が先史以来、無償で人間のためにやってきたことを考えてみるのはどうだろうか。大自然は、太陽のエネルギーを送り届け、水や空気を作り出すなど、さまざまなものを与えてくれている。しかし、そのことに対して、われわれにお金を請求したり、見返りを要求したりすることはなく、淡々と尽くし続けてくれている。この大自然のありようこそが「道」であり、「徳」なのである。
他にも、植物の成長を人間の生き方に照らしてみるのもよいだろう。作物を育てるためには、まず植物が育つ土壌を耕し、肥料を与え、健全な状態にすることが必要である。土が肥沃でなければ、どんなによい種子であっても立派な作物は育たない。人間も同様で、その人がもっている独自の個性を正しく発揮するためには、その土台となる土壌を豊かにしなければならない。その土台こそが「徳」なのである。個性という花や実を成らせるためには、土壌となる、人間の普遍的な徳を身に付ける必要がある。具体的には、孔子のいう徳(仁・儀・礼・智・信)であるが、その前に、なぜこの徳が必要なのかを考えることはもっと大切である。自然は、まさにそれを教えてくれるお手本なのである。
倫 → 徳
漢字の“倫”は、「イ(人)+侖(きちんと整った)」からなり、つながりのある人間同士をいい、「人々の秩序正しい関係」を表す。“倫”を使った熟語には、倫理、倫類、倫次、人倫、天倫、…がある。
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“徳”と“倫”はともに、“正しく”生きることを意味する漢字であるが、徳が「人が持つ心の正しさ」であるのに対し、倫は「人々の関係の中での正しさ」を表している。道徳と倫理という言葉も、両者は、守るべき善悪の基準を意味するが、道徳は人が人として守るべき基準であるのに対し、倫理は社会において守るべき基準を指している。その意味では、「道」という普遍的にあるべき姿に対して持つものが「道徳」であり、道徳のある人たちで構成される社会で持つべきものが「倫理」ということになる。
倫理は、企業活動においても精神的な基盤として、極めて重要なものである。その企業倫理を語る際によく使われるのが、CSR(企業の社会的責任)、コンプライアンス(法令遵守)やコーポレートガバナンス(企業統治)といった言葉である。こういった倫理に関わる重要な言葉は、ローマ字や英語由来のカタカナ語が主に用いられている。ここでは企業がどう生きるべきか、自らの行動倫理を真剣に考えるというよりも、仕組みだけ外国のものを持ってきて体裁を整えている印象が強い。
そうした外国のお仕着せのシステムに頼っていては、企業の精神的な基盤とは何かという本質的な議論をすることは難しい。形式的な制度、規則、手法といったルールばかりが残り、あれをしてはいけない、これもしてはいけない、といった規制でがんじがらめになってしまう。このような後ろ向きで受け身な発想ばかりでは、ルールに違反しなければ何をやっても構わない、という考えにもなりかねない。それでは本末転倒である。
また、米国のある経営学者は、「CSRと企業活動を一体化して事業戦略を立てることで、より効率よく利益を生み出せる。日本企業にはその戦略が欠けている」と語っている。利益を先行させながらCSRを考えるという発想はいかにも米国的である。「企業の社会的責任」では、企業はどうあるべきか、どう生きるべきかという土台の「倫理」的な議論が重要で、利益の議論はその次にくるものである。CSRという三文字英語には、“ビジネスの道具”という響きが感じられてしまう。
社会的責任(倫理)と利益とは、必ずしも両立しない。時には対立する。そのときは、間違いなく社会的責任が優先されねばならないのに、これが逆になって、利益が先に出てしまったら大変である。「企業の社会的責任」の本来の意義は、単に法令遵守とか、法律に違反しないとかいったレベルの話ではない。そのレベルを超えて、積極的に社会の要請に応えていく、より良い社会の実現を目指し、そのために必要な行動を自らも起こしていくという能動的な姿勢がなくてはならない。
日本では、近江商人の「三方よし」という考え方が古くからある。売り手だけが利益を得るのではなく、買い手も世間(社会)もよくなるような経営をしなさい、という倫理と営利を一体化した商いの精神である。まさに「企業の社会的責任」の原点と言える。こうした先達たちの企業倫理観を下敷きにして、しっかりとした企業文化をつくっていけば、おのずと世の中の倫理や道徳に反することはしないような生き方になっていくはずである。
悟 → 徳
“悟”という漢字は、「忄(こころ)+吾(守る)」を表し、心の迷いをしりぞけ、心の明るさを守ることから、「さとる、物事の道理を明らかに知る」の意となる。“悟”を使った熟語には、悟性、悟道、覚悟、英悟、悔悟、…がある。
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“徳”の大切さを説く経営者の一人に、松下幸之助がいる。幸之助は「人間として一番尊いものは徳である。だから、徳を高めなくてはいけない。技術は教えることができるし、習うこともできる。けれども、徳は教えることも習うこともできない。自分で悟るしかない」(『松下政経塾 塾長講話録』)という言葉を残している。
「徳を悟る」と聞くと何やら難しそうではあるが、幸之助は、何とかして徳を高めたいと考えれば、もうそのことが徳の道に入っているとも言っている。「徳というものはこういうものだから、このようにやりなさい。」「ならば、そうします」というようなものとは違う。もっとむずかしい、奥の深いもので、自分で悟るしかない。その悟る過程として、「お互い徳を高め合おう。しかし、徳ってどんなもんだろう」「さあ、どんなもんかな」というところから始めていけばよいということである。
徳を悟るということは、何も寺で修行しなければならないといったものではない。誰でもすぐに実践可能なことである。あとは実践するか否かが問題なのである。
また、「悟り」とは、何気ない日常生活における「気づき」だと教えてくれるのが、禅語の「聞声悟道 見色明心」1)(もんしょうごどう けんしきみょうしん)である。訓読みすると「声を聞いて道を悟り、色を見て心を明からめる」となる。古人は自然の音を聞いて世界の真実を悟り、眼に入った色や形を見てわが心がどういうものかを明らかにした、というのである。仏の教えは、私たちの身の回りにある。それに気づくか、気づかないかだけなのである。
現代社会に生きていると、常に過分な情報が降り注いでいる。すきま時間を見つけては、スマホでネットニュースや他愛のない配信動画を見ては心をざわつかせる。そして、ときにそれを受容していることにすら無自覚になってしまう。情報過多に陥ると、脳は疲れ、判断能力が低下し、気づきどころではなくなってしまう。脳の健康のためにも、悟り(気づき)のためにも、昔の人のように、自然から教えを学び、感じ取る時間が必要ではないか。
自然の教えを学び、感じ取る一つの方法に散歩がある。近くの公園に行って緑に触れるもよし、街中をブラブラするもよし、山歩き、海辺歩きならなおよい。散歩をするだけでも、何か自然が私たちに迫ってきて、教えてくれるものがある。そして、自然の中に身を置いて、自然の素晴らしさ、不思議さを感じながら歩いていると、私たちの五官は研ぎ澄まされていく。空の青さ、木々の緑、海の藍、潮の香り、草花の形、色や匂い、小鳥たちのさえずり。それらは五官を通して、私たちに何事かを語りかけてくれる。
さらに、自然の中で無心となると、日光、空気、水、土壌、植物、昆虫、鳥、…といった、さまざまな存在が「縁」で結びついていることに気づく。そして、自分はその一部であると感得したとき、私たちは、無限とも言うべき心の安らぎを得ることができる。それこそが「聞声悟道 見色明心」である。心に疲れを感じたらひとりで散歩をしてみる。ひとり自分のペースで歩くからこそ、大切なつながりに気づけることもある。
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1) 『心をととのえるスヌーピー 悩みが消えていく禅の言葉』(光文社)
哲 → 徳
“哲”という漢字は、「折(切る)+口(いう)」を表し、言葉で世の中の事象を切り分けることから、「物の道理に明るい」の意となる。“哲”を使った熟語には、哲学、哲理、哲人、賢哲、先哲、…がある。
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企業は利益を上げなければ存続できないが、利益だけを追い求めていては存続できない。それは誰でもよく分かっていることである。にもかかわらず、目先の利益が先行し、不祥事を起こす企業はなくならない。これは、まさに企業の「徳」(正しく生きる上での精神的規範)に関わる問題である。
中国古典『菜根譚』には次の言葉がある。「徳は才の主、才は徳の奴なり」つまり、才(才能)と徳(人格)はどちらも必要だが、才を活かすには徳が伴っていなければうまくいかないことを説いている。才だけで一時的に成功した人物が、徳がないために意外なつまずきで崩れていくというのはよく聞く話である。
では、企業における才と徳とは何であろうか。(才も徳に伴う結果という面もあるが)おおまかに言えば、結果として目にみえるものが才、目に見えないものが徳と考えてもよいだろう。見えるものの典型が、業績や技術である。株価や貸借対照表、損益計算書などを見れば経営状態が見えてくるし、技術力はその企業がつくる製品として具現化される。一方、目に見えなくても重要な位置を占めるのが、その企業独自の経営「哲学」や文化、風土といったものである。ここで言う哲学とは、経営においてその企業が目指しているもの、最もこだわっていることや大切にしていることは何か、ということである。
そもそも人が「哲学」を求めるのは、人生に迷った時、哲学が道を教えてくれるからである。人は生きている限り迷いが絶えない。企業経営でも同じである。経営者は業績が好調なときはかえって先行きが不安になるし、業績が悪化してきたときには「もうダメか」と弱気の虫が頭をもたげてくる。そんな時に迷いを断ち切り、自分なりの物差しで事に処していく必要に迫られる。哲学とは、この物差しを持つことである。
人生と同様、経営には迷いがつきものである。一度決めたとしても揺れることがある。したがって人生には、哲学が必要なのである。揺れたときも、哲学があれば自信を持って前に進むことができる。そのためには、ときどき、ちょっと立ち止まって考えてみることも必要だ。仕事とは何か、何のための仕事なのか、忙しさの渦に巻き込まれているがこれでいいのか、幸せなのか、…。そんなことを考えることが、哲学、ひいては「徳」をつくりあげていくうえで大事である。
企業の「徳」とは、その企業がどんな「哲学」をもって、何を目指してどう生きようとしているかということから生まれるものである。この徳をもっているか否かが、日々の仕事や、その企業がつくり出すモノやサービスに投影される。企業が成長、発展して生き残り続けるには、どうしても売上げ、利益、株価といった評価軸を超えて、高い徳を持たねばならない。今、そのために必要な哲学をもつことが問われているのである。
根 → 徳
“根”という漢字は、「木(き)+艮(とどまる)」を表し、土の中にいつまでも留まる木の根元、ひいては、「物事のもと」の意となる。“根”を使った熟語には、根源、根気、根性、禍根、精根、…がある。
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企業という組織を動かしていく「根源」の力とは何だろうか。この何かを追求していくと、各企業には特有の「目に見えない力」あるいは「黙ってそこにある力」が働いていると思えてならない。さらに、第2話「知」の項で触れたように、力の根源である精神的エネルギーは「知」であることを考えると、言わば「黙の知」とでも言うべき知がそこに存在している。この「黙の知」は、ナレッジ・マネジメントでいう形式知(言葉や数式などで客観視できる知識)や暗黙知(個人の経験や勘に基づく、簡単に言語化できない知識)といったナレッジではない。それを超えた、企業という集団の深層にある知・情・意を包みこんだ人の温もりのある知である。具体的には、その企業が持つ文化、風土、伝統、社風、価値観などと言ったものにあたる。
そうした企業の文化、風土、…といったものは、その企業に何かあった時にどう対応するかという行動基準のようなもので、企業の型とも言える。自分たちは意識していないのだが、外から見ると、各社にそれぞれの型がある。この型を「道徳」とでも呼んでもよいだろう。ここでの道徳とは、法律といった明文化された決まり事ではないが、“当たり前に”守るべき行為の基準である。つまり、その企業を動かす力の方向と大きさを決めるのは道徳ということになる。その企業に、そもそも道徳があるのか、いかなる道徳があるのかによって、企業の行動は大きく変わるのではないだろうか。
このことは、人間について考えてみると、あながち外れた考えではないことがわかる。老子は、万物を生み、成長させる根源を「道」と呼んだ。そして、この道が人間にあらわれると「徳」になり、徳があることで人間となり、これがなければ形は人でも人でないという。つまり、徳は人間の「根」のようなものであり、これがないと倒れてしまうし、そもそも生きてはいけない。そうであるから、企業においても、「徳」(道徳)が、その企業の成長を左右するカギと言えるのである。
さらに、もっと根本的な「万物の根源」について考えてみたい。老子は、万物を生み、成長させる根源を「道」と呼んだ。それは万物が、本来 “自然”より授かった生きるべき正しい方向とでもいうべきもので、それに近づき、体得することが人間として正しく生きることにつながるというのが東洋の思想である。一方、西洋には「物事の根源」を意味する言葉として、ギリシャ語の“フュシス”(physis)がある。事物の生成因・始動因を表し、physics(物理)の語源とも言われ、ラテン語ではnatura(自然)と訳された。フュシスは「道」に比べて分析的な概念ではあるが、東洋も西洋も、万物の根源は「自然」が出発点と考えていたことがわかる。
そう考えると、「自然」とは、生きる力の「根源」であるとともに、生きるための知の「根源」でもある。私たちは原点に帰り、もっと高い位置から自然に目を向けるべきである。そして企業は自然から謙虚に知を学び取り、自然がもっている「徳」とは何かを考え、採り入れることで、新しい世界を切り開いていくことにつながるのではないだろうか。
軸 → 徳
“軸”という漢字は、「車(車輪)+由(中から抜け出る)」からなり、車輪中心部の穴を抜け出て向かいの車輪とつながる意から、「二つの車輪をつなぐ心棒」を表す。“軸”を使った熟語には、軸足、軸装、車軸、基軸、縦軸、…がある。
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いま、企業の成長には、存在意義や社会的価値を重視した「パーパス経営」が欠かせないと言われている。企業は、その活動の「軸」をしっかり持って経営せよ、ということである。ややもすると企業は、売上げ、利益、株価などの指標に振り回されがちである。そこを見直そうという動きだ。
同じことが個人についても言える。誰もがさまざまな可能性を秘めている。「自分軸」がないと、そのことに気づくことができない。会社から与えられた仕事をこなすことだけに汲々とする。自分の人生だというのに、自分事として捉えられない。他人軸で仕事をしていると、新しいことにチャレンジしようという意識は希薄になりがちである。それに対し、自分軸で仕事をするということは、自己保身に走らず、摩擦を恐れず、問題を解決するという意気込みを持つということである。そして、そうでなければ、質の高い仕事をつくりだすことはできないのではないか。
自分軸を持つことで、自分の行動を決めるときに他人の意見に振り回されず、自分の信念や目的に沿った行動をとることができる。但し、そうは言っても、自分のことだけを考えて周囲の反応や感情を軽んじていては、単にわがまま、自己中心的な人だと思われてしまう。そうならないためには、自分軸のベースに「徳」があることが必要である。徳(五常の徳)を自分の行動の指針として取り入れることで、自分の中に芯ができ、どんな状況でも迷いがなくなる。誰に対してもどんな状況でも平等な判断ができることになる。
「五常の徳」とは、仁(思いやり)、義(正義)、礼(秩序)、智(智恵)、信(言行一致)という5つの徳のことである。五常の徳は、人が大きく成功するために必要不可欠な原理原則である。これを軽視した人は、信用を失いやがてお金、そして仲間や友達を失うことになる。五常の徳を常に意識して人と接すれば信頼を失うことはない。この五常の徳の大切さを心して仕事に取り組むことを忘れてはならない。
最後に、自分軸を持って周りの環境に振り回されない、動じないと、人生はもっと豊かになることを説く禅語を紹介する。「八風吹不動」1)(はっぷう ふけども どうぜず)である。人のまわりには、さまざまな風が吹く。八風には、都合のよい四つの風=四順(しじゅん)と、都合の悪い四つの風=四違(しい)がある。四順は、「利」(利益)、「誉」(名誉)、「称」(称賛)、「楽」(快楽)の四つであり、四違は、「衰」(衰退)、「毀(き)」(不名誉)、「譏(き)」(非難)、「苦」(苦難)の四つである。
この風の中で生きていくのが人生である。自身に降りかかったことに一喜一憂し、動揺することもあるが、それに振り回され続けると、心身ともに疲弊してしまう。どんな人にも、さまざまな風は吹くのであるから、振り回されるのではなく、「自分軸」をもって風を楽しむ気持ちを持ちたい。そよ風、強風、暖かい風、寒風、…。風のかわし方、楽しみ方を身につけられれば、人生はもっと豊かになると、この禅語は教えてくれる。
遍 → 徳
漢字の“遍”は、「辶(歩く)+扁(かたよる)」からなり、平らにひろがることから、「あまねく、ゆきわたる」の意を表す。“遍”を使った熟語には、遍在、遍歴、遍路、普遍、万遍、…がある。
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「普遍」という言葉は、「ひろく行き渡る」という意味とともに、哲学における「多くの事物に共通の性質またはそれをあらわす概念」でもある。現代の私たちは、普遍という言葉を何気なく使っているが、古代、ギリシャやインドで哲学が始まった時から、普遍という概念は哲学を貫く最も重要な課題の一つであった。
普遍をあらわす英語のuniversalは、「他の多くのものに対する一」という表現から作られたラテン語universalisに由来するそうだ。この「一」と「多」の対比と関係は、ギリシャの哲学者達の間で、論争が交わされてきた。多様で変化するこの世界の原理は、一つなのか、有限あるいは無限なのか。なぜ多くのものを貫いて、同じ一つのものが存在し得るのか。それは多とは離れて別にあるのか、それとも一がそのまま多になるのか。
また、インドでは、根源的一者(宇宙の根源であるブラフマン)と現象界の多様な事物との関係をどう明確に説明するかという問題が重要な主題であった。そして、それは根源(原因)と多様な事物(結果)との間の因果関係、および一(一般、普遍)と多(個物、特殊)の関係について論じるものであった。
その後、西洋の哲学や思想では、世界には普遍的なものがあり、それは合理的な秩序により決定されているもののはずだと考えるようになった。そして現代では、その合理性にもとづいて普遍をめざして世界が動くという傾向が顕著である。例えば、市場原理主義、マネー資本主義、グローバリズムの動きであり、それらは普遍的な価値を求める活動に他ならない。しかし、ローカルな世界(世間)をグローバルな世界(世界)として捉えて普遍をめざしすぎると、何か大事な忘れものをしてしまうのではないかという思いが生まれてくる。実際、普遍をめざす価値やルールが浸透すればするほど、それに反発するローカルな考え方が生まれてくる。いま世界各地で起きている反市場原理主義、反マネー資本主義、反グローバリズムの動きがまさにそうである。
こうした動きを見ると、普遍的な価値というのは追求するものではなく、本来備わっているべき価値でなければならないと思えてくる。そして、追求するものはローカルな世界それぞれに存在すればよいのではないだろうか。では、本来備わっている価値とは何か、それは老子が説く「徳」である。「徳」の項で述べたように、「道がこの世の万物を生み出し、徳がそれらを育て、それらの物が形となってそれぞれの役割を果たす事でこの世は成り立っている」。徳とは、この世界を動かす目に見えない本質(=道)の“はたらき”であり、本来備わっている普遍的な価値そのものなのである。
老子の教えはいささか抽象的でわかりづらいので、孔子の説く「徳」(五常の徳:仁・義・礼・智・信)で考えてみよう。五常の徳とは、人に備わっている良き性質を意味している。ということは、普遍的な価値には、人が本来備わっている良き性質がそこに反映されていて然るべきである。ところが、先に挙げた市場原理主義、マネー資本主義、グローバリズムなどの動きには、「経済合理性」が根底にあるのみで、徳が全く感じられない。そのため、経済合理性だけで物事を判断してよいのか、経済とか合理だけで決められない大切なものがあるのではないかという疑問から、反対する動きが生じてしまう。
つまり、経済合理性そのものが普遍ではないので、その考えから生まれる価値も普遍的とは言えないのである。「普遍」的な価値とは、人が持つ普遍的な本質である「徳」が反映されたものでなければならない。
連載予定(過去掲載分は、タイトルをクリックしますとページに移ります)
・連載にあたって | 5月 |
・第1話 漢字マンダラ | 5月 |
・第2話 ”変”、“知”、 “理”、“道” | 6月 |
・第3話 “革”(および “価”、”蛻”、…) | 7月 |
・第4話 “創”(および “夢”、“断”、…) | 8月 |
・第5話 “考”(および “観”、”望”、…) | 9月 |
・第6話 “結”(および “包”、”緯”、…) | 10月 |
・第7話 “和”(および “幹”、”芸”、…) | 11月 |
・第8話 “調”(および “静”、”流”、…) | 12月 |
・第9話 “想”(および “真”、”感”、…) | 1月 |
・第10話 “徳”(および “悟”、”軸”、…) | 2月 |
・連載を振り返って | 3月 |
筆者プロフィール
常盤 文克(ときわ・ふみかつ)
元花王会長。現在、常盤塾で学ぶ。大事にしている言葉は「“自然”は我が師、我が友なり」(“自然”に学び、自然と共に生きる)。著書に『知と経営』『モノづくりのこころ』『楕円思考で考える経営の哲学』など多数。
丸山 明久(まるやま・あきひさ)
日産自動車技術企画部在籍時に丸の内ブランドフォーラムに参加、常盤塾に出会う。常盤塾・塾生。現在は、常盤塾での学びを果樹農業経営で実践中。