図1. 漢字マンダラ
変
“変”(旧字は “變”)という漢字は、「“䜌”(神への誓いのことばを入れた器)+“攵”(叩く・打つ)」からなり、神への誓いを破り、改めることから「あらためる、かえる、かわる、みだれる」の意を表す。“変”を用いた熟語には、変化、変改、変革、異変、一変、…などがある。
“変”に他の文字を添えるとその文字自体の意味が広がってくる。例えば、一変とは「すっかり変わる」という意味だが、“変”に“一”という一字を組み合わせると、“一”に「すっかり」という意味をもたらしてくる。漢字の深さであり、面白さである。
“変”の中で最も日常的に使われる言葉は「変化」だろう。ものごとの本質はこの変化であると説いたのは、中国の古代自然哲学である「易」(陰陽思想)である。易という漢字は、環境の変化に応じて色を変えるトカゲを側面から見た形象文字(上の“日”の部分がトカゲの頭で、下の“勿”の部分が足と尾を示す)で、「変化」という意味を表している。易の書『易経』を英語では「Book of Changes」(変化の書)と訳している。古代中国の自然観・自然哲学を集大成した書であり、ここには、いわば大自然の教えを学ぶための方法論が凝縮されている。その大自然が私たちに教えてくれている最も大切なことが、「変化こそがものごとの本質であり、変化は常態である」ということである。
大自然は何億年ものあいだ、絶えず変化し続けてきた。数え切れないほどの厳しい環境の変化に見舞われながら、たくましく生き残ってきた生きもの(動物や植物)たちは、例外なく、変化を拒まず、変化を恐れず、変化を柔軟に受け入れて、「変化と共に生きる」道を選んできた。同じ生き物であるわれわれ人間、そして企業にも、この変化と共に生きる姿勢が大切である。ただし、これは単に変化に身を任せ、受け身に生きるということではない。自らも変化に合わせて、時には自ら変化を起こし、時には積極的に、能動的に変身していくことが必要である。生きものたちは、私たちにこの生き方を教えてくれている。
では、変化と共に生きるには、どのようなことを心がければよいのだろうか。人は誰でも、大きなもの、大きな変化に目や耳がいき、小さなもの、小さな変化を見逃しがちである。しかし、実は、小さなもの、小さな変化の中に物事の本質が隠れていることが多い。ここで大事なのは、「変化の兆し」を知ることである。易経の教えるところによれば、変化が起きる前に必ず兆しがある(霜が降りれば、まもなく冬がやってくる。霜は冬の訪れの兆しである)。この兆しを感じ取り、変化を先回りして、やがて現れる変化に先手を打つ。大自然の動植物たちは、この兆しを感じ取る能力にすぐれている。それ故に現在まで生きながらえているのだろう。これが変化への対応の本質である。
小さな変化に気づくには、好奇心や探求心が欠かせない。また、無心、素直さを持って大自然に接することも大切である。大自然とのつき合い方はさまざまだが、例えれば、大自然のなかに身を置き、没入し、素直に大自然の語りかけるものに耳を傾ける。このとき、五感が研ぎ澄まされ、変化の兆し、そして小さな変化が見えてくるのである。
最後にひと言つけ加えておきたいことがある。それは、変化は「生の証(あかし)」ということだ。死したものは変わらない、いや、変われない。変化は次なる変化を引き出すエネルギーである。変化は変化を生み、その積み重ねによって、ものごとは進化していくのである。
次に、人間の最善の生き方に必要とされる「自然の知」、その“知”について話を進める。
知
“知”という漢字は、「矢(神に誓約する印)+口(祝詞を入れる器の形)」からなり、「神を祀(まつ)り、神に誓うことによって、神から授かるもの」を知といい、「あきらかにしる、しる、さとる」の意を表す。“知”を用いた熟語には、知者、知性、機知、致知、理知、‥などがある。
例えば、知者とは「道理を知る人、知恵のすぐれた人」という意味だが、知と人を組み合わせただけで、知という漢字一字には「道理を知る」とか「知恵がすぐれた」という意味に広がる。“知”に他の漢字を添えると、字と字の間から新しい発想が湧いて、“知”は大きな広がりと深さを増してくる。これは、知という文字の持つ力である。
同じ意味を持つ漢字に“智”がある。知が主として「しる」と動詞に用いるのに対して、智は「ちえ、ちしき」と名詞的に使用される。また智は仏教用語としてのニュアンスが強い。本話では、“知”に統一して話を進めることにする
“知”という言葉、普段は何気なく使い、また耳にするが、いざ、あらためて「知とは何か」と問われると、ひと言で答えるのは難しい。それはちょうど“愛”とは何か、“心”とは何かと問われても、簡単には答えられないのと同じである。言葉を変えれば、知は簡単には説明できない多義性と多面性を持っている。これが知の特性であるとも言える。しかし、ここで知を語らねば、答えは出てこない。様々な場面で、様々なレベルで語っているうちに、知の輪郭が現れてくるだろう。それはちょうど山と山の合間から白い雲が湧いてくるイメージである。
“知”はどこから来たのか、どこにあるのか。それは、「知とは神から授かるもの」という言葉にあるように、神さまが大自然の中に、もっと具体的に言えば、私たちの周囲にそっと置いてくれているのである。私たちは、その知を謙虚に、心を無にして、掬いあげればいいのである。この知が感動や喜び、そして、私たちが明日に向かって生きようとする勇気の源なのである。
知の話をもっと身近に引き寄せて、企業の立場で考えると、現下のコロナ禍、ロシアのウクライナ侵攻など厳しい変化の時代を生き抜くためには、今ある知を絶えず見直しながら、新たな知を獲得し続けなくてはならない。企業における知のイメージとは、たとえば経営の仕組み・仕事の仕方やものの考え方であったり、人の集まり方や組織のあり方であったり、さらに広げて言えば、企業文化や組織風土などである。知は、人や社会、企業などの人の集団が持つ一つの価値であり、企業活動、経済活動の土台となるものである。いかによりよく生きるか、よりよい仕事をするかの知恵とも言える。
また、知はわれわれ人間が生きていく上での「精神的エネルギー」であるとも言える。知とは人が生み出し、育てていくものでもある。それは単なる知識(ナレッジ)ではない。知恵(ウィズダム)と呼んだ方がいいかも知れない。知を語るときは「理」だけではなく、人の「情」の要素を忘れてはならない。例えば、「おばあちゃんの知恵袋」という知は、単にお年寄りが持つ知識だけを指しているのではない。そこには、「長年の経験で得た知や親から受け継いできた知を、子や孫に伝え共有したい、楽しい幸せな家庭にしていきたい」という思いや愛情がいっぱい詰め込まれている。言うなれば、人の温もりのある知である。知を「人」や「情」と切り離し、数値や理論、法則といった「理」の部分だけで議論すると、「知恵袋」が持つ人の温もりや思い、愛情がやせ細って、人間味が抜け落ちてしまう。これでは、知を小さなモノにしてしまう。知を育てていくには、理と情の両面を考えねばならない。
ここまで来ると、「知の輪郭」が何となく現れてくる。「知こそ生命の泉」、「生きるときの精神的なエネルギー」である。知については、本話を進める中で、もう少し詳しく触れていきたい。
それでは、次に、「自然の知」と並んで、人間の最善の生き方に必要とされる「自然の理」、その“理”について話を進める。
理
“理”という漢字は、「玉+里」からなり、玉の筋目に沿って切り分ける、ひいては、玉を美しく磨くことから「おさめる、みがく、ただす」の意を表す。“理”を用いた熟語には、理性、理解、理念、真理、摂理、…などがある。
易経(説卦伝)に「天地人三才」という言葉がある。大自然と一体化した仕組みの中で仕事をしなさいという教えを説いている。ここでいう「天」とは天の働きであり、大自然の“理”である。「地」は大地であり、天の働きを受けて万物を生み出す働きをする。「人」は天地の間に立ち、天地双方の働きを体現する存在とされている。「才」は働きを意味する言葉で、天地人の三才が揃ってはじめて事を為すことができる、と考えるのである
経営の奥義は、大自然の理(自然界を支配している理法)を知ることにあると考えている。大自然の理を汲み取り、経営や人材育成に生かしていくことこそ、私たち日本企業の知恵であり、生き方ではないだろうか。自然の力は、人間の営みよりはるかに大きい。自然界の生き物たちがなぜ素晴らしいかといえば、それは厳しい自然を生き抜いてきたからである。自然界には生きていくための掟、自然の摂理がある。生存したいなら、自然の摂理に則った道を選ばなければならない。人(ヒト)もけっして例外ではない。動物や植物たちの生き様や命の営みは、知に満ち溢れている。自然は、汲めども尽きぬ「知の泉」である。一草一木、一鳥一魚、すべてが私たちの師であり、友なのである。
また、ヒトは自然の理に適った環境に生きるとき、もっとも健康になり、何事にも前向きになれる。創造的な仕事をするには、何といっても心と体の健康が第一である。ただし、私たちは自然に向き合うとき、最初から仕事に役立てるためとか、商品開発のヒントを探るとか、あまり目的意識的に接すべきではないだろう。むしろ大自然の不思議さに目を見張る感性、子どものような素直な好奇心や感動―アメリカの海洋生物学者で『沈黙の春』の著者レーチェル・カーソンのいう「センス・オブ・ワンダー」―から出発すべきではないだろうか。大自然から感じ取るものを大事にするという謙虚な意識、それは一見受け身のようでいて極めて能動的な、自然への接し方の第一歩である。
子どもの頃なら誰もが持っていた感性を取り戻すには、わざわざ遠くの海や山に行かなくても、近所の公園を散歩しながら小鳥たちの鳴き声に耳を傾け、季節の移ろいのなかで変わりゆく木々の姿に目を向ける。また、庭に草花を育てたり、それも叶わなければ、ベランダの鉢の小さな花に心を寄せたりすることでもいい。ともかく、小さな自然に接して自然をよく観、耳を澄まして自然が発するメッセージ(智慧、摂理)を聴き、自然の精気をいただくことである。そうすれば、ヒトとしての人は、本性を取り戻し、きっと多くのことを自然から感得できる。自然の精気が仕事の活気(エネルギー)になるはずである。
ここで強調しておきたいのは、「理」は自然の中に潜んでいる、その理を、心を無にして、謙虚に掬いあげることである。
最後に「知、理は道にある」とされる、その“道”について話を進める。
道
“道”という漢字は、「辶(歩く・行く)+首(髪の毛の生えた頭)」からなり、一説には、邪気を祓うために、生首を持って行進する意を表すことから、祓い清められたところを道といい、「みち」の意に用いる。“道”を用いた熟語には、道理、道学、道徳、道教、…などがある。また道を目的語にした動詞(「道を」に続く言葉)には、歩む、生きる、究める、切り拓く、探る、進む、説く、拓く、見つける、模索する、などがあり、“道”は単に「人が通るためのところ」の意味を超えて、「人が守るべき教え・やり方・生き方」という精神的な概念を表わす言葉でもある。
“道”という漢字から連想されるものの一つに道教がある。「道」とは万物創造の根源であり、自然界の生き物である人間も「道」に従わなければならないという東洋哲学の思想である。道家の祖・老子の言葉に「人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」とある。人は地のあり方を手本とし、地は天のあり方を手本とし、天は道のあり方を手本とし、道は自然を手本としている。老子の説いた「道」とは、混沌としてすべてを内包するもので、天地が生まれる前から存在していたものである。どんな定義にも収まらない生命原理であり、あらゆるものは「道」から生まれ、またそこに帰って行く。
そして、老子は「道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず」とも説いている。「道」とは、万物を生み、成長させる根源であり、本来自然より授かった生きるべき正しい方向とでもいうべきものである。それに近づき、体得することが人間として正しく生きることにつながるのだが、普通の人にとっては、漠としてつかみどころがなく、言葉で表すことはできない。それは書物や他人の話から学習できるような代物ではなく、淡々と実践を積み重ねることによってのみ、おぼろげなその世界に近づくことができるというのである。
日本では茶道や華道、剣道や弓道、芸道のように、芸ごとの専門分野の意味に “道”という漢字を用いている。日本人は老子の説く「道」を、様々な分野で、長い歴史を重ね、文化として継承してきた。また、伝統文化に限らず、日本人の仕事に対する考え方においても同じことがいえる。仕事は道を極めていく一つの過程であると考え、仕事の達人を目指して努力し、精進する。それはまさに「仕事道」と呼ぶにふさわしい。
これは、江戸時代から受け継ぐ精神的な文化そのものである。武士には武士道があり、農民、職人、商人にもそれぞれの職業倫理が説かれていた。何の仕事に従事していても、金銭よりも精神性(農民は生命の源をつくるという農民道、職人は金銭よりもでき映えを重んじる職人道、商人は信用を大事にする商人道)を大切にしてきた伝統があったのである。
このような日本固有の風土で生き、仕事をしてきた中で培われてきた日本人の仕事観は、われわれ日本人の血の中を流れているものの一つである。ある種の「求道」の精神といってもいいであろう。ところが、合理性、効率性、利益性を重視する米国型経営を追随する最近のビジネスでは、この点がすっかり置き忘れられている。実はこれが、永続する企業の根底にある最も大事なものなのではないだろうか。
第2話「変・知・理・道」を結ぶにあたって
- 変化こそがものごとの本質であり、進化の本源である。また、変化には必ず“兆し”がある。これを知ろう。
- 漢字とは形象化された壮大な意味の体系である。改めて漢字の持つ力、エネルギーを見直そう。そこから何か新しいものが生まれてくる。
- 人間を司っているのは、天人合一、梵我一如の哲学である。天と人とは道を媒介にして一つながりである。
- 天・地・人の三つの才(働き)は、それぞれ完結した世界を形成しながら、相対応して同一の原理に支配されている。
- 人間(ヒト)は、自然の知、自然の理によって生きるのが最善の道である。そして、知、理は変の中に、道の中にある。
連載予定(過去掲載分は、タイトルをクリックしますとページに移ります)
・連載にあたって | 5月 |
・第1話 漢字マンダラ | 5月 |
・第2話 ”変”、“知”、 “理”、“道” | 6月 |
・第3話 “革”(および “価”、”蛻”、…) | 7月 |
・第4話 “創”(および “夢”、“断”、…) | 8月 |
・第5話 “考”(および “観”、”望”、…) | 9月 |
・第6話 “結”(および “包”、”緯”、…) | 10月 |
・第7話 “和”(および “幹”、”芸”、…) | 11月 |
・第8話 “調”(および “静”、”流”、…) | 12月 |
・第9話 “想”(および “真”、”感”、…) | 1月 |
・第10話 “徳”(および “悟”、”軸”、…) | 2月 |
・連載を振り返って | 3月 |
筆者プロフィール
常盤 文克(ときわ・ふみかつ)
元花王会長。現在、常盤塾で学ぶ。大事にしている言葉は「“自然”は我が師、我が友なり」(“自然”に学び、自然と共に生きる)。著書に『知と経営』『モノづくりのこころ』『楕円思考で考える経営の哲学』など多数。
丸山 明久(まるやま・あきひさ)
日産自動車技術企画部在籍時に丸の内ブランドフォーラムに参加、常盤塾に出会う。常盤塾・塾生。現在は、常盤塾での学びを果樹農業経営で実践中。