例えば、車を運転している時、道路上に標示されている「とまれ」と「止まれ」では、どちらの方が素早く、その意味を認識できるだろうか。平仮名だけの「とまれ」では、文字を読んではじめて意味が通じるのに対し、漢字の「止」を使うと、見ただけで意味がわかる。運転中では瞬時の判断が必要なことから、平仮名から漢字表記に変わったという。漢字は、物事を一文字でわかりやすく伝える、はっきり伝えるという特性を持っている。
また、言葉や文字ではなく絵図で「伝える」という方法もある。言葉や文字で伝えるのが難しい、物事の真理や仏教の教えを、絵図を用いることで分かり易く、伝え易くしたのがマンダラ(曼荼羅)である。ここで紹介する「漢字マンダラ」は、漢字とマンダラを組み合わせたものである。
筆者らは、長年、有志の勉強会(常盤塾)で、日常の仕事の背景にある哲学とか「こころ」をテーマに勉強を重ねている。ここで学んだことや思いを多くの人たちに伝え、そして共有する手段はないものかと思案してきた。そうした中で、ふと頭に浮かんだのが、「漢字マンダラ」である。勉強会各回の話題を漢字一字で表し、関連の深い漢字を結び合わせ、束ねる―このマンダラによって「伝える」手段としての深まり、広がりを高めようと試みたのである。
漢字には、ヒト(人)が生きる姿、モノ(物)が存在する姿の断片が映し出されている。漢字マンダラはこうした漢字を有機的に繋いだ一つの統体である。このマンダラを日々の仕事の「思考の柱・行動の軸」として活用してみてはいかがだろうか、というのが筆者らの提言である。
【連載第1話】 漢字マンダラ ~思考の柱・行動の軸として~
さて、漢字の話からはじめよう。その年一年の世相を漢字一字で表現した「今年の漢字」は、今ではすっかり定着して、年末の風物詩ともなっている。昨年(2021年)の一位には「金」が選ばれた。2位以下は、輪、楽、変‥苦、勝、命までの20字が発表された。ちなみに、一昨年(2020年)選ばれた「密」は、新型コロナウイルスに対する人々の意識、生活・行動様式を表現した漢字であった。いま、この密の一字が人々の価値観やものの考え方、行動のあり方を変えている。
最近は同じ「今年の漢字」でも、年末ではなく、新年の願いや意気込み、どんな年にしたいかをランキングする企画もあるようだ。年始にその年の抱負を漢字一字で表現し、机の前に貼っておくことで、その思いを一年間忘れないようにするというのもよいアイデアかも知れない。
1.漢字とは
漢字一字で、その年の世相や思い、願いを表現できるのは、漢字が表意文字であるからだ。漢字一つ一つが豊かな意味を持ち、その形、響きが人それぞれの想像を喚起する。漢字とは物事を表現するひとつの始原の媒体であり、その意味の深さ、広さ、大きさを伝える力強さの源なのである。さらに、漢字を使うことで、発信者の思いを受信する側に押し付けるのではなく、相手の価値観や評価する尺度で、受け手に多様な漢字の意味を感じさせる力がある。
また、日本語には印象を深める表現として、「一語文」という手法がある。一語でわかりやすく伝える、物事をはっきり伝える方法である。よく目にする例をあげれば、トラックの後ろに貼られている『危』の文字だ。「危険物積載」と書かなくても、『危』という漢字一字を見ただけで、このトラックは危険物を積んでいるということがわかる。さらに「危険物積載」という表示の場合は読まなくてはならないが、『危』一文字ならば「絵」として捉えることができるという面も見逃せない。
以下、漢字一字を効果的に使っている身近な例を挙げてみる。
先日、散歩の途中、近くの神社に立ち寄ったとき、祓(はらい)門に「祓」、「清」、「守」、「幸」の四字が刻まれているのを見かけた(図1)。参拝するときの唱えごとである「祓え給い、清め給え、神(かむ)ながら守り給い、幸(さきわ)え給え」を四つの漢字で表しているということのようである。
図1.祓門の四字
将棋や囲碁の棋士は、好きな言葉や座右の銘、信念や哲学が反映された言葉など、思い思いの字を色紙や扇子に揮毫する。二字や四字の熟語とともに、漢字一字の場合も少なくない(例えば、夢、心、忍、氣、道、凛、爽、‥)。対局の際には、異なる字が書かれた扇子を持っていき、その時の気分、対局の相手によって扇子を使い分けるそうだ。たった一文字で気分を高揚させたり、鎮めたり、攻守の姿勢が変わるという。
最近、マーケティング(宣伝・広告)分野においても、漢字一字で、その商品の印象を深める効果を狙った事例をよく目にする。例えば、ある紳士服メーカーでは、商品の機能や特徴「動きやすさ・着やすさ・機能性」について、それぞれの〈動〉・〈着〉・〈機〉を大きく太く強調して、ひと目でその機能や特徴が伝わるような表現をとっている。
同様な手法はある高齢者向けマンションのマーケティングにも見られる。その住居のコンセプト「住空間・食事・支援・安心安全・医療介護」について、それぞれを漢字一字〈住〉・〈食〉・〈支〉・〈安〉・〈守〉で表現し、これら五つの漢字を大きく並べて、入居への関心を呼び起こしている。
話は変わるが、解剖学者の養老孟司さんも漢字について興味深い話をしている。その中のいくつかを紹介しよう。養老さんは、漢字一文字をお題にして、世の中の出来事を独自の視点で語るコラムを新聞に連載しているそうだ。執筆を通して、「その漢字を決めるとき、モノを表す具体的な文字よりもコトを表す抽象的な文字を選ぶ方が面白い。話に深みと広がりが出てくる。」とラジオ番組で話していた。漢字には、その漢字が持つ意味に深さと広がりがあり、一字で多義的な表現ができるという特徴がある。
また、漢字と漫画の共通性についても指摘している。「漫画の絵は漢字で、吹き出しのセリフはルビ、つまり漫画はルビを付けた漢字である。」と述べている。漢字は、もともと、形や概念を表わした図を簡略化してできたものである。日本人はその漢字に、大和言葉をあてて訓読みを加えた。つまり漢字という「絵」に、その説明となる言葉を組み合わせているので、漢字と漫画は同じというわけだ。漢字はぱっと見ただけで、その意味を感じ取る、または感じさせることが出来る特徴を持った文字なのである。
2.マンダラとは1)
ここまで、漢字には一字を見ただけで、その意味の深さや広さを捉える、また伝える力がある、と論じてきた。次に、本題の「漢字マンダラ」における「マンダラ」の話をしてみたい。
筆者らは、これまで20年近く毎月、有志で勉強会を開いている。ここで勉強した中身をまとめ、われわれの思いを多くの人たちに伝えることはできないかと考えていた。いろいろとまとめ方を考える中で、勉強会での小話(会のはじめの常盤の話)を一語で表してみる、すなわち漢字一字であらわす「一話一語」という形で整理することを思いついた。さらに、その一話一語の中の文字には互いに繋がりがあるので、関連性の深い文字を束ねていくと、マンダラ(曼荼羅)の絵が思い浮かんできた。そうして、ひとつのマンダラの絵で、我々の思いとか、皆に伝えたいことを表現できるのではないかという考えに至ったのが経緯である。
マンダラとは、仏教の秘密の教えを説く「密教」が、世界の構造や心の構造に関する真理を、言葉や文字ではなく、視覚を通して伝えるために開発した図像である。幾何学的な構成と強い対称性を有しているのが特徴である。もともとインドの言葉をそのまま音訳しただけのものであり、「輪円具足(りんねんぐそく)」、円くて完璧なものと意訳できる。
マンダラの意味や目的については、空海の言葉がもっとも端的に物語っている。「密蔵は深玄にして翰墨(かんぼく)に載せ難し。更に図画を仮りて悟らざるに開示す。」(『請来目録』)(密教の教えは深く神秘的なために、文字では伝えがたい。そこで図像を用いて、理解できない人の眼を開くのです)
密教には、最高の真理を伝えるのに、言葉では不可能でも、シンボルをはじめ図像なら可能という発想があった。さらに、文字を目で追い、理解するには、大変な時間が必要となるが、図像であれば、ひと目でこと足りるというメリットも大きかった。
インドで生まれたマンダラも、空海が中国から持ち帰ると、日本独自の進化を遂げている。最も有名なマンダラとして、胎蔵マンダラ(図2)と金剛界マンダラ(図3)が挙げられる。それぞれのマンダラに描かれた仏菩薩の構成について簡単に説明する。
図2.胎蔵マンダラ 図3.金剛界マンダラ
胎蔵マンダラは、大日如来を「あらゆる事物を生み出す子宮(胎)」とみなす『大日経』の世界観を描いている。マンダラの中心部を占める正方形の領域の中心に坐す如来像が大日如来であり、その大日如来の周囲には、この如来から生み出された多数の仏菩薩と神々が並んでいる。
一方、金剛界マンダラは、『金剛頂経』に記された究極の真理の世界「金剛界」を描いたものである。九つの区画から構成されており、最も重要なのが、「成身会(じょうじんね)」と呼ばれる中央の区画である。成身会には、金剛界三十七尊と呼ばれる仏菩薩が並び、その中央には、金剛界五仏(大日如来+四仏)が配置されている。
このように、マンダラは、密教が説く世界の構造や心の構造に関する真理を俯瞰したものである。そして、漢字と同様、それを見ただけで、その意味の深さや広さを捉えることができるという特徴を持っている。その意味では、マンダラを、一つの大きな漢字と捉えることもできるであろう。
このマンダラは、仏教の世界観を示したものであるにもかかわらず、キリスト教圏である欧米においても広く深く研究され、活用されている。特に精神医学とは最初から深い関わりがあった。精神医学者のカール・グスタフ・ユングは、マンダラと関わることで、人間の精神状態を安定させる効果があることを発見した。その後、欧米に在住するユング派の精神科医や心理学者が、マンダラ型の塗り絵を考案し、精神医療の治療に使用している。
1)正木晃『NHKこころの時代~宗教・人生~マンダラと生きる』NHK出版、2018年
3.漢字マンダラ
以上、漢字とマンダラについて、その特徴を述べてきた。そして、両者を組み合わせて、筆者らが作成したマンダラが図4のようなものである。以後、これを漢字マンダラと呼ぶことにする。