京都の輝きに見る戦略の徹底

(こちらの記事は、マーケティングホライズン2022年1月号『わたし的マーケティング論』に記載された内容です。)

「モダン建築の京都」という展覧会を京都市京セラ美術館で観た。明治維新後、東京への遷都により天皇や公卿がこぞって東京に移り、一度は衰退した京都が、近代化の中で復興を成し遂げた際に造られた数々の建築物を通じて、その発展の歴史を振り返るという展覧会だ。

これまで大きな震災や戦災が無かった京都であるからこそ現存する明治期から大正、昭和にかけて造られた数々の名建築の背景やそれに関わった先人たちの思いや考えを知ることは、これからの日本がとるべき道筋を示してくれるので非常に興味深かった。

現在も京都に残る当時の優れた建築の中でも特に異彩を放っている建物に「京都大倉別邸(現・大雲院)祇園閣」がある。渋沢栄一と東京商法会議所(現・東京商工会議所)を設立し、後の東京電力、大成建設、帝国ホテル、サッポロビールなどを立ちあげた実業家の大倉喜八郎が、祇園祭は年に1ヵ月ほどなので、1年中祇園祭の山鉾を皆に見せたいと鬼才伊東忠太に設計させた望楼だ。鉄筋コンクリート造三階建で高さは36メートル、鉾先には大倉喜八郎ゆかりの金鶴が輝く異形の建物である。

祇園祭の山鉾を模したということで、石積み状の下部は中国建築を参照していたり、正面の左右に座る狛犬は西洋の獅子像やスフィンクスの姿も重ねあわされていたり、玉を抱える照明器具の妖怪はゴシック建築のガーゴイルのようで、実際の山鉾に多い多様な国際色もうかがえる。昔、高価であったペルシャ絨毯等のお宝の披露を狙った山鉾の精神を踏襲する京の遊びの系譜の極みともいえる。

この祇園閣に代表される明治期からのユニークな京都の建築群に共通しているのは、衰退していく京都を何とかしようとする京都人もしくは京都を愛する人々の思いである。

それがよくわかるのは、この展覧会の「琵琶湖疎水と旧御所水道ポンプ室」でも紹介されている琵琶湖疎水工事に関わる逸話だ。衰退していく京都を救おうと、明治14年に第3代京都府知事となった北垣国道が始めた琵琶湖疎水工事を皮切りに、その後を継いだ京都市長西郷菊次郎(西郷隆盛長男)が立てた京都百年の大計「京都市三大事業(第二疎水、上水道整備、道路拡築・市電敷設)」で今日の京都発展のベースを造った。琵琶湖疎水工事は、京都に仕事を生み、水道を生み、水力発電による電気を生み、舟運による観光や物資の往来を生み、衰退する京都に可能性を開いた。

このような京都の歴史を見てみると、今、日本に必要なこれからの戦略が見えてくる。現在の日本は、東京遷都後の京都と酷似していると感じるのは私だけだろうか。世界から注目を浴びたGDP世界第2位から転落し、世界をリードしてきた技術力も特にデジタル時代においては周回遅れと言われて久しく、超高齢化の現実に有効な手段がとれず、ジェンダーや多様性などの現代的な未来像の達成率ではかなりの置いてきぼりを食らっている。まさに衰退の危機にあると言っても過言ではない。天皇という大きな支柱を失った明治期の京都の様相である。

そんな危機にある現在の日本がとるべき戦略のヒントが、正に当時の京都の衰退から現在の京都の隆盛への軌跡となった京都の建築群にある。

第1に、文化の歴史融合による文化魅力度を上げることだ。当然京都は、御所がおかれたことから始まる歴史・文化の宝庫である。建築だけをとっても歴史ある神社・仏閣がひしめいている。さらには京町屋という独特の建築文化も存在する。

「モダン建築の京都」によると、それらの京都の町を彩る古い建築物にいかに近代的な建造物がなじむか、相互につながるようにするかということを建築家たちは工夫し、職人たちは昔の技を活かしながら新しい技術を吸収したという。単なる近代文明の無条件受け入れではない。

「京都市庁舎本館」のユニークな塔屋の上部に付属した小塔は毛筆の形を模っていたり、天井飾りに蓮華紋や菊花紋を応用したりして、日本やアジアの要素を取り込んだ意匠は独特の西洋建築を生んだ。

「長楽館(旧村井吉兵衛京都別邸)」に至っては、アメリカ人建築家の設計であるのにも関わらず、ルネサンス風の外観、客間はロココ、食堂は新古典主義、そしてなんと3階は桃山風の書院を中心とした和室群を配した。西洋、東洋、和の意匠を網羅する意図が感じられる。

それらの事によって、昔の文化と近代の文明を繋ぎ、西洋と東洋、そして日本との融合を進めることによって、都市としての魅力を演出した。まさに茶の湯に代表される日本の文化取り込み力の極みである。

第2に、京都で衰退から抜け出そうとする際に掲げた理念である「教育」と「勧業」の成果だ。琵琶湖疎水工事をけん引したのは、当時工部大学校出たての若干23歳の田邊朔郎で、その卒業論文が「琵琶湖湖水工事の計画」であり、それを実際に行った。現在では考えられない明治期の教育の成果といえるが、人に投資する姿勢にみなぎっていた明治期に比べて、現在の教育はどうだろうか。

イノベーションを掲げているものの若い世代にチャンスを与えるのではなく、実績主義や成果主義的に切り捨てられる若い世代、企業の余裕のなさに起因する非教育的な風土は否めないのではないか。使い捨てる人はいなくなり、さらに人は育たないという二重苦状態が散見する。

京都は衰退から抜け出すために自由闊達な教育を育み、その教育が産業を興した。若者に機会を与え、それを大人が後押しした。正しい教育のグッドスパイラルがそこにあった。

これらが奏功して現在の京都の発展と繁栄がある。勿論それを支えているのは、震災と戦争災害(特に太平洋戦争)に大きくダメージを受けないで歴史ある文化が現存している幸運も手伝っているのは事実だが、それ以上に、それらを活かしながら新しいものを取り込み調和させる智慧と戦略の徹底があった。

そのことが現在の京都の文化観光都市としての隆盛に通じると考える。今でも日本の各所で多く見かける古いものを壊し新しくするだけの薄い合理性ではなく、日本という本来持っている不思議で魅力的なコアコンピタンスを活かし、自らも、また世界からも新しいイノベーションを取り入れ、世界の市場に打って出る。そんな衰退を脱した京都のしたたかさに学ぶのは、すべてにおいて戦略の重要性とその徹底した実践だ。戦略なくして成功なし。

わたし的マーケティング論。最重要なのは「戦略」であり、その徹底である。

 

吉田 就彦(よしだ なりひこ)
デジタルハリウッド大学大学院 教授
(株)ヒットコンテンツ研究所代表取締役社長。自ら「チェッカーズ」「だんご3兄弟」などのヒット作りに関わり、ネットベンチャー経営者を経て現職。「ヒット学」を提唱しヒットの研究を行っている。木の文化がこれからの日本の再生には必要との観点から、「一般社団法人木暮人倶楽部」の理事長にも就任。著書に「ヒット学~コンテンツ・ビジネスに学ぶ6つのヒット法則」、共著で「大ヒットの方程式~ソーシャルメディアのクチコミ効果を数式化する」などがある。

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