コロナからの再生: HowではなくWhy、を問うことからはじめよう

(こちらの記事は、マーケティングホライズン2020年7月号『根力と軸行力』に記載された内容です。)

コロナウイルスが人間社会を揺るがしている。 私はシンクタンク勤務を3月に終えて、4月から新たな職場(不二製油グループ本社と立教大学)に移ったが、職場の空気を知ることもなく、すべてオンラインで自宅にいながらの新たな二足の草鞋生活となってしまった。

在宅ワークとなった人たちは巣ごもり生活にリズムと健康を工夫されているが、私も近所の散歩が日課となった。当初は近場で同じようなところを歩くので見飽きるだろうと考えていたが、道すがら植栽を眺めながら歩いていると日々新たな発見がある。桜が咲き葉桜になったかと思うと、ツツジ、藤の花、アジサイと鮮やかで個性的な花が次々と現れて目を楽しませてくれる。特にしっかり花が咲くハナミズキや桜などの樹木は、幹も太く遊歩道のタイルを持ち上げるくらい根に勢いがあることに気がつく。


またベランダの家庭菜園にも熱がはいってきた。プチトマトは1か月で実がつき、ゴーヤは髪の毛のように細い弦がロッククライミングでホールドするように枝をつかんで支えて、大きな葉を上へ上へと伸ばし、黄色い花を咲かせている。種から植えたペポカボチャはいつの間にか掌の大きさの葉を広げている。


当たり前のようだが、これらはすべて「生命」の作用だ。冬から春になると示し合わせたように一斉に緑が芽吹き、花を咲かせる、という当たり前の風景をつくる植物の営みとはいかにクリエイティブなことか。自然のサイクルは気候変動によって大打撃を受けつつあるが、身近な自然の営みは俗世の大混乱など一切関知しないがごとく確実に廻っている。


コロナのある時代となり、いままでの様々な社会的な「当たり前」が、けっしてそうでなかったことを思い知らされている。働き方も満員電車も、密になる食事も、気楽な海外旅行も。一人ひとりの命の大切さに改めて気づかされ、そして当たり前と思っていた、泰然とした自然の営みの尊さ豊さに改めて深い感動を覚える。


家庭菜園はプランターの栽培だ。限られた小さなプランターでもトマトやゴーヤは、そこで根を張り葉をひろげ実をつける。しおれたり、枯れるのは、根っ子がうまく土に張れてないからだ。植物は動くことができないが、根っこがあるからこそ生きる場所を確保し、養分と水分を得ることができる。根っこは命の営みの基本だと改めて思う。


それは人でも同じこと。ふらふらと定まらない人を根無し草という。人に物理的な根っこはないけれど、その精神や魂には根っ子が必要だ。


知識や技術は生きるスキルとしても必要だが、その知識や技術を使って社会に「良きしごと」を為すには、どこに向かって葉を広げ、どんな花を咲かせ実をつけるのか、それを方向づけて養分を与えるための根っ子が必要だ。その根っ子は、大きな大地(命の営み)にしっかり根を張っていなければならない。それは活力ある仕事、命をリスペクトするためには不可欠だ。


そんな根っ子をしっかり持つこと、それを根力というのだろう。それは、人の内なる声、良心であり、その人が生まれて達成すべきミッションー使命―であり、根本的な価値の拠り所である。


今、コロナ禍という未曽有の状況下にあって、目の前で今までの価値観や常識が音を立てて揺らぎ、崩れ、覆され始めている。一方で、世界のリーダーたちの間ではアフターコロナ、ウィズコロナの時代をいかに再生再建するかの議論がはじまっている。


特に、国連諸機関やEU、グローバルなNGOや、世界のビジネスリーダーやサステナブル金融の世界では、SDGsやパリ協定が目指すサステナブルな社会への再建計画の青写真を広げはじめた。これは日本にとっても望ましい方向性だと思う。しかしここに落とし穴がある。それは、国際社会が提示した青写真を、その設計思想をそのまま使って再建することだ。


私は、20年以上、CSRやSRI(今のESG投資)の調査研究普及啓発をやってきた。今でこそ上場企業ではCSR部署が標準装備だし、投資家の間でESG投資も当たり前になったが、20年前には、いずれもほぼ存在していなかった。企業人に対してどうやってCSR活動を行うのか、投資家に対してESG投資は具体的にどういうことか。こういう話を企業や投資家との間で20年以上やってきた。そこで一番問題と思ったのは、何も疑問に思わず活動したがる実務家たちである。


講演の場合、①海外の動向、②お手本になる事例紹介、③どうやったら日本で真似ができるか、とい3点セットを話して欲しいという依頼が多かった。が私は基本的にそういうスタイルはお断りした。なぜか。それは、「なぜ」がないからである。


CSRもSRIも新しい概念であり当時は(今も、ある程度そうかもしれないが)「利益を追求する企業活動や投資活動と相反するもの」というのが常識だった。だからこそ、「なぜ」CSR、SRIなのか、それぞれ当事者が腹落ちして納得しないと組織に根差した意味ある活動にならない。しかし、日本の実務担当者の場合、このWhy「なぜ必要なのか」に時間をかけることをあまり好まない。


そこは適当でもよいから、その先のどうやってやるのか、Howを聞きたい。そういうリクエストが圧倒的だった。想像するに、社長指示でCSR部署を作る、あるいはCSR報告書をつくる羽目に陥った担当者は、なぜ必要なのか質問することなく、どうやってそれを遂行するかに100%エネルギーを注ごうとするのだろう。上司から指示された企業人としてはそういう発想は、わからなくもない。


しかし、どうやってやるかHowは知りたいが、Whyは無くてもOK、という感性は私には理解できなかった。また、海外の動向をまず知り、それを日本に移植すればよい、そして海外企業の事例を真似すれば、いっぱしの見てくれとなるので、批判されない体裁の良いものができる、という発想も不思議だった。


そういう発想はCSR、SRIの精神の真逆のもので、活動する上で害毒でしかなかったと思う。なぜそう断言するのか。CSRとはそれぞれの企業の存在意義(どういうことをして社会に価値を与えたいのか)に基づき、企業のミッション(使命)を示すものなので、他社の真似をしても意味がない。


また海外の文化や価値観は基本的に日本のものと異なる。舶来品を真似しても「なんちゃってCSR」にしかならないのだ。同様にSRIもどのような価値を重視するのか、という投資家の哲学が土台となる。


だから私の講演では、何故CSRなのか、SRIなのか、を徹底して話をしてきた。それに対して、「やっと納得した」、「腹落ちした」、「これなら役員に説明できる」、というコメントを良くいただいた。逆になぜ今まで何年もそれを無視して業務ができていたのか、私には不思議であった。


なぜを問う、自分が納得するまで問う、その結果得られたものは自分の軸の養分となる。それが命の基だ。そこで自分の使命をしり、だからこそ価値ある活動になる。CSRとSRIを長年やってきて実感としてそう断定する。こんなのは当たり前のこと、とこのように説明されると皆さんも思うだろう。


しかしなぜか日本では「Why」が軽視されてきた。それは、何故を問う教育、自分の頭で考え抜く頭を鍛える教育をしてこなかったためだと思う。算数の計算のように決まっている答えにいかに早くリーチするか、これが基本的な能力の判断基準であった。


それは、木が独立してもしっかり立てるように根っ子を育てる代わりに、木を倒さないために、あらかじめ定めた枠に収まる枝が広がる主体性のない木を重視する教育がされてきたためであろう。つまり根力を育てるのではなく、根力のない人材を作る教育だったのだ。なぜならば根力ある人材は、ほかの場所に移植することも難しいので、効率性が悪く、組織の中では扱いづらいと避けられてきた。どの栽培地にでも簡単に移植できすぐ葉が育つ根が張ってない人材を日本社会は求めてきたのだろう。


確かにそれは外枠がしっかりしていて中を早く埋めるような場合に有効であろう。しかし、コロナによって価値観という外枠が大きく揺らぎ、かつそこにいくつも穴が開いているような状況になった今、自力でしっかり立つ根力のある人でなければ、外の嵐に耐えつつ価値があるサステナブルな仕事や仕組みは作れない。根力がなければ風に飛ばされ、吹っ飛び、枯れてしまうだろう。そして、根がしっかり張ってなければ、枝葉を広げ、花を咲かせ、実をつけるという活力ある「しごと」もできず、使命は達成できない。


根力のある人の仕事とは、自分がやろうとしていることの意義を一番理解しているから目的も明確となり、またモチベーションも高いから即行動に移すことができる。かつ周りを説得するにも心から納得しているので、当然説得力があり、広く影響を及ぼすことができる。効果的な仕事を、迅速に影響力を行使しながら行うことができる。


いいかえると心の体幹がしっかりしているのだ。通常体幹は体を迅速に安定的に思たように動かすために必須といわれる。体幹の有無は確実な行動力につながる。この行動力は根っ子という価値軸に根差した力であり、軸行力である。軸行力とは、単に行動が早いではなく自らの価値に基づきそれを的確にぶれずに実現する行動力である。


ただ、それは周囲からは浮くリスクがあり、今までの秩序だった日本社会ではこのリスクのほうが目立ったのだろう。出る杭は打たれる、というあれだ。しかし秩序が揺らぐ中では、自分の軸をもつ根力のほうが重視される。


では根力を育ててもらってこなかった人(大多数の日本人)はどうすればいいのか。これこそ自分で考え抜くべき課題だと思うが、そういう訓練をしてなかったら難しいだろうから一つのヒントとして、私の判断基準をお伝えする。


それは単純なもので「死ぬときに後悔しないかどうか」である。CSR、SRIという長年日の当たらない分野をやってきたので、最初のころは、本当に何度もめげて、やめよう、メインストリームの業務をやろう、と思ったものだ。しかしそうしなかったのは、そうやって悩んでいたある日「今メインストリームの業務に移って出世したり金が稼げたりして、でも死ぬ時には、その金も地位も捨てて逝く。

そしてそんな儚いもののために、自分の本当にやりたいことを捨てた人生って何? と絶対に後悔するだろうな」という思いが沸き上がったからである。それ以来、現世においては目先の利益か自分の志か、という選択に迫られたときは、自分自身にこれを問うことにしている。おのずと答えは明らかだ。そして、そこで納得した自分は迷いがなくなっているので実行力(軸行力)が格段に上がっていることを実感する。


コロナ後の世界をどう再構築するか、私たち一人一人の根力と軸行力が問われている。その根力に基づいた、私たちが本当に納得する青写真まずそれを作って、それに基づく社会システムを自発的に作っていくそういう軸行力が試される。それは一人一人の命を再び見つめ直し、あらゆる命をリスペクトする社会づくりへの第一歩となるだろう。



河口  真理子  (かわぐち  まりこ)
立教大学特任教授、不二製油グループ本社㈱  CEO補佐、㈱大和総研  特別アドバイザー(2020年4月より)
2020年3月まで大和総研にてサステナビリティの諸課題について、企業の立場(CSR)、投資家の立場(ESG投資)、生活者の立場(エシカル消費)の分野で20年以上調査研究、提言活動を行ってきた。現職ではサステナビリィの教育と、エシカル消費、食品会社のエシカル経営に携わる。アナリスト協会検定会員、国連グローバル・コンパクト・ネットワーク・ジャパン理事、NPO法人・日本サステナブル投資フォーラム共同代表理事。エシカル推進協議会理事、(公財)プラン・ジャパン評議員、サステナビリティ日本フォーラム評議委員、WWFジャパン理事、環境省中央環境審議会臨時委員など。
著書「ソーシャルファイナンスの教科書」生産性出版

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