これ以外にも、他人を思いやる「江戸しぐさ」や「あうんの呼吸」といったことも、日本に根差した文化・価値観といえる。制約と無限、全く対極的な概念であるが、根本は同じことなのかもしれない。
日本文化の特徴に大きなヒントがある。
①道とつくものが多い。
②限られた文字数や色数で全体を表現する。
③四季のうつろいを限られた世界で表現する。
④相手を慮る事が前提となっている。
⑤主体と客体との関係の中で輝きを持つ事。
⑥形式美を大切にする。
四季がはっきりとし、旬という感覚を持つ日本ならではの事なのかもしれない。季節は春、地域によっては既に「桜」の時期を過ぎた所もあるであろうし、まだこれからという地域もあるであろう。0
ことさら、私達日本人は「桜」を好む傾向があるが、「桜」の語源には諸説あるものの、「桜」という木は田の神が宿る場所、また豊作を見守る木という考え方から、「さ」は神々が宿る「稲」、「くら」は神々が集った「稲」を貯蔵する場所というものがあるそうである。一種のアニミズムを感じ取とることもできるのである。
即ち、この世に存在する全ての物に対して神性ないしは人格を付与するものであろう。とりも直さずこの事は、自己以外の全てのものに対し、一種の畏敬に近い感情を持つ事にもつながる事と考えられる。
同時に、相手を尊重するが故に、相手との相対比較の中で、自己を観る事ではなく、自己を確立する事の必要性を説いていると考えられる。
アニメで有名な「一休宗純禅師」の言葉に次のようなものがある。「花は桜木、人は武士」という言葉である。桜、武士共に潔さを美徳とする点での共通項であるが、この事が意味する本質は大変奥深いものがあるのではなかろうか。
損得ではなく、儚いなかでの瞬間の輝きに美を感じる事、終りという事に美を見出す事であろう。拡散よりも収斂に美を見出す事なのかもしれない。
また、国宝に指定されている長谷川等伯が1590年代半ばに描いたとされる「松林図屏風」も本質を顕す一つと言えよう。日本の水墨画の頂点といえる作品であるが、炭一つの濃淡で、靄を描き、靄の中にある数本の松の命の輝きを表現し描いている作品である。
見る人によって様々な感想を持つのであろうが、霞んだ松を描く事で、あえて全体像を明らかにしない中で、無限の広がりを感じる事ができるのではなかろうか。まさに、部分から全体像を把握するという極致なのかもしれない。
文化の背景にあるもの
宗教に関する理解は大変難解なものである。そうした中で、大変解り易く本質的な理解を進めて下さる宗教研究家に「ひろさちや」さんという方がいる。その方がある著作の中で述べていらっしゃる事が非常に興味深い。
その中では、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に代表される部分と、仏教、またヒンズー教、神道に代表される部分を明快に解り易く区分されておられる。
・ユダヤ教、キリスト教、イスラム教
天地の創造を神が行い、その後に人間、動物、植物を神が作られたとする一神崇拝を前提とする、神との契約関係の宗教。
・仏教
天地は既に存在し、人が仏教の教えをなんとなく感じた時に成立する自覚宗教。
・ヒンズー教、神道
一定の国や地域に生まれた事により自動的に組み込まれる所属宗教。
まさに言い得て妙ではなかろうか。古来、日本人は様々な渡来文化を融合し、融通無碍の文化に昇華させてきたといえる。融通無碍の本質とは、一体何なのであろうか。
何者にも縛られない絶対的精神自由、自らがどうあるべきかの内観を前提として自分自身を確固たるものとすることであろう。そう考えれば、日本文化の多くのものに「道」という言葉がついてくることが理解できる。
「道」とは一体何なのであろうか。様々な解釈があることを前提とした中で考えれば、天や宇宙や大自然と言って良いかもしれない。私達に無限のエネルギーを与えてくれる太陽を「お天道様」ということを考え併せれば何とは無しに理解できるような気がする。
換言すれば、天や宇宙や大自然に従ってあるがままに生きる事が「道」ということかもしれない。「あるがまま」という言葉と「制約」という言葉も相反するように感じられるが、「あるがまま」であるために、損得とは別の意味での「制約」があるのではないか。
「道」という概念は「老荘」の思想の中で強く出て来ると同時に、「老荘」の思想の根幹は、「無」ということかもしれない。どんなに医学が発達しようとも、人の命には限りがある。
また、企業サイドから捉えた場合は、永遠の継続発展が最も望ましい事であるが、どのような老舗であろうとも、継続するためには常にイノベーションを行っている。常に変化する事で、発展を続けているのである。
SWOT分析においては、制約要件は方向性を示す事と同義であるともいえる。ここから、制約与件というものは一種の「道」を意味すると考える事はできないであろうか。
そしてその上で、「無」という概念(既成概念や過去の成功体験に囚われない事)を導くことで、将来への発展を創造するという事にならないであろうか。
さて、日本に今ある様々な文化は、中国大陸から渡来した宗教文化と様々な思想が昇華されたものが大半である。その中でも特に禅宗がもたらした影響が最も強いかもしれない。とりわけ禅宗に関しては最も戒律が厳しい(制約が多い)宗派だといわれている。
また中国の「道教」の影響を強く受けた宗派であると言われている。中国から渡来した茶の文化を「道」までに完成させたのは禅宗であるといっても過言ではないかもしれない。「岡倉天心」の名著である「茶の本」の中には様々な名言がちりばめられている。
「小さきものほど偉大である」「いっぱいの茶を飲む そこに真理が宿る」などなどである。常に相対的に事象を捉える事、小さき事の中に本質が存在する事への認識といったものであろう。
先程、長谷川等伯の「松林図屏風」の事を述べたが、松林の全体像を写実的に描写するのではなく、一部を描写するという不完全性(一種の制約)の中でこそ、鑑賞する人の無限のイマジネイションが広がることとなる。
俳句に関しては5-7-5の17文字の中にこの世の中の全ての事象、人の気持ち、宇宙を凝縮したものである。制約の極致である。
制約の本質
制約という言葉からは、何か窮屈なマイナスのイメージを持つ場合が多い。しかし果たしてそうなのであろうか。制約という言葉は不必要なもの、余分なものを切り捨てて本質をクローズアップするための手段として考えることはできないであろうか。
日本には様々な世界に誇りうる文化がある。その中でも前述のように「道」までに昇華させたものが多く存在する。「道」とは人のあり方、企業のあり方を規定する制約であるといえる。
昨今、インターネット上の情報には、無軌道な反倫理的なものも散見される状況である。情報と言った言葉で語られるに値しないものも多いと思われる。
そして、そのような情報に値しないものに振り回されているのも現状である。そうした中で、今一度、制約という事を深く考えることで、心の鏡の輝きを取り戻す事も考えねばならない。
中島 聡 (なかしま さとし)
株式会社明治 執行役員
高千穂大学 客員教授
明治大学大学院 グローバルビジネス科 講師