「食卓の団らん」が 幻想となる時代

食のしあわせを形作ってきた3つのキーワード
「食のしあわせ」というと、どんな光景を想像するだろうか?家族で仲良く食卓を囲む。グルメな友人と話題の飲食店で舌鼓を打つ。

職場の同僚と仕事の後に一杯引っかける。愛情たっぷりで色とりどりのお弁当を頬張る。人によってそのイメージは様々だろう。しかし、今挙げたようなしあわせの形はもはや旧態依然のステレオタイプとなってきているのかもしれない。
そのことを考えていくうえで、まずは一般的な「食のしあわせ」を因数分解してみよう。そこから浮かび上がってくる主なキーワードとして、「人とのつながり」「美食」「手間ひま(愛情)」の3つが挙げられるのではないだろうか。

 

これらの価値は普遍的であり、いきなりなくなってしまうようなものではない。しかし時代が進む中で、それらのキーワードと逆のベクトルを向いていたり、うまく説明ができなかったりするケースが増えてきたように感じるのだ。3つのキーワードと時代のズレについて順に見ていこう。


人とのつながりはわずらわしい?
まず初めに「人とのつながり」について考えてみる。家族で食卓を囲むというのはもっともイメージしやすい食のしあわせの形だろう。しかし、時折メディアで取り上げられるように、生涯未婚率は徐々に高まっており、「結婚・出産をベースにした家族の団らん」は決して一般的とは言えなくなってきた。企業のCMでは何を描いても批判されて炎上するこの時代、「家庭の食卓シーンを描くのは独身者への差別だ」と糾弾されてしまう未来は遠くないかもしれない(これは半分冗談で半分本気だ)。


また、友人や仕事の関係者と飲み食いすることによって心理的な距離を縮めるのも食の機能の1つだ。ただし、皆がそうした結びつきを期待しているわけではなくなってきている。「おひとりさま」という言葉が注目されるようになったのは2004年頃のようだが、そのスタイルは少なくとも都市部においてはいまやすっかり定着したという印象だ。


「孤独のグルメ」という作品は原作がドラマ化されて大ブレイクしたが、酒の飲めない中年男性が知らない街の食堂に一人で入り、ひらすらメシを食らうという内容だ。あるいは、「ワカコ酒」というコミックでは20代の女性主人公が居酒屋などの暖簾をくぐり、一人酒を楽しむという設定である。


これらの作品から感じられるのは、「食事や酒くらい、人に気を遣わずに自分が欲するものを純粋に楽しみたい」というストレートな感情である。そうしたモチベーションを前にすると、他者の存在は時に邪魔ですらあるのだ。もちろん、一人で外食を楽しむというのは前述の通り、人目が気になりにくい都市部だからこそできることかもしれない(特に女性ならばなおさらだろう)。しかし、「食と人間関係」は時に切り離したいというのは多くの現代人が抱えている本音ではないだろうか。


若者の「美食離れ」?
次に「美食」という要素について考えてみる。おいしいモノを食べたいという人がいることは変わらないが、その価値にとらわれないケースが増えている。例えば、インスタグラムをはじめとする「SNS映え」を最優先する層の急増だ。カラフルな彩りの料理やデザートに対する人気が高まっているが、SNS映えと味覚的なおいしさはまったくといって良いほどリンクしていない(これは極論ではあるが、食を仕事にしている私の実感だ)。


一流の料理においては視覚的な美しさもおいしさの一部というのはまったくもって正しいのだが、多くの飲食店がSNS投稿を促すために開発しているメニューは、「おいしさのための美しさ」ではなく、「美しさのための美しさ」であることがほとんどだ。もっと下世話に言うならば、それらの店が考えていることは「いかにして客にキャーと言わせて写真を撮らせるか」である。つまりSNSを強く意識している客や店は、食とはおいしさそれ自体を楽しむものではなく、他者へのアピールのためのツールと捉えているのだ。


美食の価値を疑わせる動きはもう1つある。それは「食は栄養がとれれば十分」という価値観の広がりだ。2014年に「ソイレント」という完全栄養食品がアメリカで話題になったことがある。これさえ食べていれば生きていく上で必要な栄養素がすべて摂取できるという触れ込みだ。あるいは日本で開発された「ベースパスタ」という商品は、パスタの中に必要な栄養素を入れ込んでいて、これを使うことで栄養摂取を効率的に行えるというものだ。


この手の商品はバー状の食品やゼリー状飲料など多く存在しており、決して目新しいわけではない。しかし、ますます時間がないと感じることが増えた現代人の中で、自分には他にやるべきことがあるんだから、食のうまいまずいなんてどうでもいいと感じる人は決してマイノリティではないはずだ。


テクノロジーが手間ひまを凌駕する
最後は3つ目に挙げた「手間ひま(愛情)」について考えてみる。特に子育てにおいては料理に手間ひまをかけることは、作り手の強いプレッシャーとなっているはずだ。日本のお弁当文化はそれをさらに助長するだろう。繊細な人の中には、加工食品や冷凍食品を使うと「手抜き」として自らを責めてしまうなどという話も耳にする。


この点については、これからのテクノロジーの進化が大きな影響を与えると考える。例えば、調理家電は近年ハイテク化が著しい。業務用領域では無人調理マシンが増えてきているが、こうした流れは家庭にも及んでいくだろう。そして、ただでさえレベルの高い加工食品がさらにハイクオリティ化することも容易に想像できる。そしてコンビニやスーパーにおいても、そうした調理家電の導入や加工技術の高度化によって、さらにおいしい食べ物が供給されることだろう。


さてそうした近未来が訪れたときに、私たちは本当に家庭で食事をつくるのだろうか。記念日や週末など、特別なときに真心を込めて料理をするという習慣はなくならないだろう。しかし、忙しい毎日の中で、これからも本当に手間ひまかけて料理をつくる必要性はあるのだろうかということを少し想像してみてほしい。洗濯や掃除においては可能な限り人の手を介さないことを求める私たちは、一体いつまで料理を「聖域」としてとらえるだろうか。


食は多様化のシンボル
こうして見てくると、「人とのつながり」「美食」「手間ひま(愛情)」といった、現在の「食のしあわせ」は根底が揺さぶられているような気がしてしまう。繰り返しになるが、これらの価値がそう簡単になくなることはない。しかしその価値観に合致しないものや包含しきれない要素がどんどん増えていくのではないだろうか。


「食は人なり」、英語でいえば「You are what you eat」というフレーズがある。何を食べているかがその人を表すという意味だが、これからの時代、「食に対してどう向き合うか」は人によって驚くくらい異なっていくだろう。ありきたりの言葉で言えば「多様性」ということになるだろうが、「自分にとっての常識」が相手に全然通用しないことが増えていくはずだ。


宗教、政治思想、職業倫理など、価値観の違いは頭では理解しつつも、どことなく腑に落ちないことはよくあるだろう。そんなときに食を見つめてみることで、「多様性」という概念は極めて実感しやすくなるのではないだろうか。オーガニック食品をお取り寄せして一日に何時間もキッチンに立っている人と、栄養食品やサプリメントばかりに頼っている人と、毎夜一人きりで飲み歩いている人と、SNSへの投稿が気になってしかたない人が同じ電車で隣り合っている時代なのだから。そしてそのどれもが当人にとってはしあわせなことなのだから。


では、あなたにとって「食のしあわせ」とは何だろう?一度、考えてみることをお勧めする。

 

子安  大輔   (こやす だいすけ)
神奈川県出身。99年東京大学経済学部を卒業後、博報堂入社。食品や飲料、金融などのマーケティング戦略立案に携わる。2003年に飲食業界に転身し、中村悌二氏と共同でカゲンを設立。飲食店や商業施設のプロデュースやコンサルティングを中心に、食に関する企画業務を広く手がけている。著書に、『「お通し」はなぜ必ず出るのか』『ラー油とハイボール』。

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