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ディスタンスの美学

(こちらの記事は、マーケティングホライズン2020年10月号『アートが変える!』に記載された内容です。)

ビジネスにアート。「アート思考」というのが、最近流行っているらしい。私は今までいわゆる「ビジネス」の世界で働いた経験がないが、「アート」の世界なら渦中で研究し、文章を書き、あるいは創作し、踊ったりもしていたので、今回も何かヒントになるようなことが書けるかもしれない。

この8月で61歳になったが、20歳代から30歳代にかけて、フランスと日本で、Art、そしてその日本的翻案である「芸術」や「アート」を徹底的に学び、実践した。しかしその後、1998年から2000年にかけ、Contemporary Artのメッカであるニューヨークに滞在して、逆にArtに「飽きて」しまった、Artの歴史的・人類史的「限界」を感じてしまったのだった。

日本ではきちんと理解されていないが、Artは人類に普遍的なものではなくて、元々はヨーロッパ人が「近代」という時代に発明した、歴史的にも地理的にも特殊な概念・実践である。ということは、「始まった」からには当然「終わり」もあるわけで、その「終わり」が前世紀末から始まった。そう、ニューヨークで痛切に感じたのだった。

Artに「飽きて」しまった後、当時は大学の教員をやっていたことから、しかも当時の日本の、大学を含めた教育現場・制度が非常に硬直化していたので、(後で語るような)教育の改革、新しい学びの場づくりなどに取り組んでいた。

そこに、2011年、東日本大震災が起きる。その前後から、それまではほとんど付き合いのなかった「ソーシャル・イノベーション」系の人たちと多く会うようになっていた。最初は、アート界や教育界以外の人たちの考えることややることが新鮮で面白く映ったが、しかし付き合っているうちになんとなく「物足りなく」なってきた。

なぜ「物足りない」のか?と考えてみると、彼らはもちろん社会のいろんな分野で改革し、新しい事業を起こそうとしているが、その「イノベーション」のほとんどがどうも「常識」を延長しただけで、「常識」の限界を打ち破るほどの力をもっていないように感じたのだった。

ところが、私が長くその渦中にいたアートの世界とは、まさに「非常識力」の競い合いの世界である。世の中の常識を破ってこそアート。他のアーティスト、芸術関係者の度肝を抜いてこそ「すごい」と評価される世界。その世界から来ると、「ソーシャル・イノベーション」のイノベーション力はなんとも歯がゆい、物足りない、「非常識力」が決定的に足りないように感じたのだった。

ところで、一口に「アート」と言うが、欧米のそれと、日本のそれは、元々歴史的にみてもまったく異なる。「常識」を破る、突き抜けるという点では似ているが、その突き抜け方がまったく異なるのだ。

私も長く住んでよく知っているフランスを始めとして、ヨーロッパのArtの突き抜け方は、たとえばゴッホの絵とかに典型的に現れているように、絵具が盛り上がりざわめき出すほどに過剰に塗りこまれている。それが表す麦畑、糸杉、空などの自然も過剰に叫んでいる。その「存在=有」の過剰さに直面して、人間の理性・ロゴスが限界にさらされ、危機に陥り、痙攣する。その「存在=有」の過剰による理性の「常識」の突き抜けに、ヨーロッパ人たちは「美」を、エクスタシーを感じるのだ。

ところが、日本の「美」は、まったくそうではない。たとえば山水画にみられるように、素材である墨と墨の「間」、それが表す岩と岩、雲と雲、あるいは木々とそこにたたずむ鳥などのあいだの「余白」を突き抜けて、彼方へと「空(くう)」を、「無限」を感じとる。願わくば、その「無限・空」に溶けこみ、一体となりたい。そのような突き抜け方である。

前者の美学を、「存在・有の美学」、後者の美学を「間・空の美学」と呼べるほどに、対照的な美のあり方、突き抜け方をしている。私は若い時、フランスを始めとしたヨーロッパで、徹底的に、それこそ体を壊すくらい、「存在・有の美学」を学んだ。その後、日本に帰り、「間・空の美学」を学び直した。

特に7年前に京都に引っ越してからは、この美学の深さを改めて知った。知っただけでなく、そこにさらに現代的可能性すら宿されていることに気づいた。たとえば去年から、お茶を習い始めたが、私の先生は歳が半分くらい。18歳まで海外で生活し、京都の大学に入ってからふとしたきっかけでお茶を習い始めたが、その先生がデンマーク人で、英語で習い始めた。

そして今では、他の若い茶人たちと「陶々舎」という場・ユニットをつくり、鴨川の川べりで野点して道ゆく人たちにお茶を供したり、かと思うと、無印良品の店舗で、そこで売られている商品だけで、それらを様々に「見立て」てお茶のワークショップをやったりしている。彼らのコンセプトはまさに現代の世でいかにお茶とともに暮らすか、ということだ。

そんな京都での生活環境で日々暮らしていた時、新型コロナウイルスに見舞われた。そして、いろんな報道に触れるなか、たとえばフランスのマクロン大統領を初めとした欧米の各国首脳が口を揃えて新型コロナウイルスとの「戦争」を強調した。その「戦争」というメタファーに、私は曰く言いがたい違和感を覚えたのだった。

そしてちょうどその時、フランスの思想家ブルーノ・ラトゥールの環境思想論の本を読んでいた。彼もまた、温暖化による異常気象が今後ますますエスカレートして、人類は「ガイア」と「戦争」しなくては生き残れないと言っていた。

人類ははたして、新型コロナウイルスを含めた自然と今後「戦争」しつづけなくてはならないのか。やるかやられるか。人類の存亡を賭けて戦いつづけなくてはならないのか。確かにそうしなくてはならない局面もあるだろう。しかし、自然との関係はそれだけでなく、人類にとって自然が恵み、ギフトの源泉にもなりうるのではないか。

人類と自然は戦争するだけでなく、恵みあい、贈りあいながら、これからの地球を共-創造、co-createすることもできるのではないか。そんな思いを最近はますます強く覚えるようになった。

ビジネスの世界にアート的感性や思考を持ち込むといっても(所詮先にも言ったように、「思考」を突き抜ける力こそアートなのだが)、今や歴史的に「終わり」を迎えつつある欧米のArt(やその日本的翻案である「アート」)の突き抜け方を生半可な理解とともに持ち込んでももはや意味がない。

むしろ、お膝元の、元々自分たちの根を下ろしていた「間・空の美学」を発掘し、活かし直した方がよほど自然であり、また未来的可能性もあるように私には思われた。片や、Artの限界をあざとく感じ始めた一部の欧米人たちも、すでにこの「美学」に入れ込みはじめている。

ビジネスで、あるいは社会的事業の世界で、真のイノベーションを起こすにも、この「間・空の美学」ないし感性がますます必要とされてくるだろう。たとえば私が親しかった教育の現場を例にとると、ある時から(教え始めて10年ほど経った頃から)、私は学生たちとともに、「学び」を根本的にイノベートする冒険に出た。

当時それを「セルフ・エデュケーション」などと名づけた(註1)。私は学生たちとともに、そもそもなぜ学びたいのか? 何を、どのように学びたいのか?と問い、そもそもなぜこの椅子と机の配置なのか? なぜ教室なのか? なぜ90分なのか? なぜ「先生」と「学生」なのか? なぜ「ABCD」という成績をつけるのか? と、教育の「常識」を形作っている要素を次々と問いにかけていった。

そして、学びをいったん完全に「ゼロポイント」まで解体し尽くした後、私たちは「学びたい」のか? 学びたいとしたら、何をどのように学びたいのか?と自問しあい、その欲望の無限のベクトルに沿って学びをゼロから組み立て直した。そうして数々の、自分たちが本当に学びたい場を創りだしていったのだった。そしてついには、「三田の家」という学びの実験場までを立ち上げ、7年も運営しつづけたのだった(註2)

そのイノベーションのプロセス全体が、私、そして学生たちにとって、一つの「作品」、「山水画」を描くようなものだった、と今改めて思う。学びの「常識」を構成する諸要素を解体し、その破片、粉塵を、「岩」や「雲」などに見立て、それらを自分たちの純粋な学びの欲望のベクトルに従って組み立て直し、描き直しつづけていく。

そうしてここかしこに生み出されていく「あわい」の無限のポテンシャルに惹きつけられ、まことに多様な人たちが日々集散し、新たな「学び」を発明しつづける…。

ただし、そんな「間・空の美学」の実践が可能になるには、それをナビゲートする者(この場合は私自身)が、前もって「自分」という「常識」をそのゼロポイントまですでに解体し、さらにそこから復活を遂げていることが不可欠だ。その実存的な脱構築の行こそ、瞑想であり、マインドフルネスの行に他ならない。この「行」の精神的裏打ちがないかぎり、「間・空の美学」もまた形だけの、空疎なものに堕すだけだろう。

ビジネスにおいて真のイノベーションを起こすにもまた、実践者にこうした実存的・精神的「行」が必須となろう。

(註1)川俣正、ニコラス・ペーリー、熊倉敬聡編『セルフ・エデュケーション時代 practica 1』、フィルムアート社、2001年。
(註2)熊倉敬聡、長田進、坂倉杏介、岡原正幸、望月良一、手塚千鶴子、武山政直『黒板とワイン――もう一つの学び場「三田の家」』、慶應義塾大学出版会、2010年。


熊倉 敬聡 (くまくら たかあき)
元慶應義塾大学教授、元京都造形芸術大学教授。
パリ第7大学博士課程修了(文学博士)。
フランス文学・思想、特にステファヌ・マラルメの貨幣思想を研究後、コンテンポラリー・アートやダンスに関する研究・批評・実践等を行う。大学を地域・社会へと開く新しい学び場「三田の家」、社会変革の“道場”こと「Impact Hub Kyoto」などの立ち上げ・運営に携わる。この夏からは博報堂University of Creativityのカタリストを務める。主な著作に『藝術2.0』『瞑想とギフトエコノミー』、『汎瞑想』、『美学特殊C』、『脱芸術/脱資本主義論』。http://ourslab.wixsite.com/ours

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