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【ビッグデータ分析の課題】株式市場の取引データから投資家の不安心理を読む

「経済物理学」という学問分野をご存知だろうか。

高校までに習う物理は主として非生物的な自然現象が専らの研究対象とみなされているが、物理学は、遺伝子、染色体などの分子、細胞レベルの生命現象や、生物集団、さらには社会・経済現象までその研究対象を広げている。


経済物理学は、自然現象に対して培ってきた概念や分析手法を使い、実証的な研究姿勢で、資産市場やマクロ経済を研究する物理学の分野である。毎年、春と秋に開かれる日本物理学会においても、社会・経済物理のセッションでは毎回数多くの発表が行われる。


研究対象となっているデータは、株式や不動産などの資産価格の分布や変動をはじめとして、さまざまな商品の価格や売上、企業所得、商取引やお金の貸借関係によって形成される企業同士あるいは企業と銀行間のネットワークなど多岐にわたっている。


その中でも、利用可能なデータ量の豊富さから株式市場は多くの研究者が取り上げてきたテーマである。株式市場は、金融市場の一つとして社会にとって必要で、しかも将来お金を儲けてくれそうな有望な企業に資金を供給することを可能にする優れたシステムである。


株式市場の参加者である投資家は、収集した情報に基づいて、どの企業が将来有望かを判断し投資を行う。また、将来の企業収益に関係なく、株価の変動から利鞘を稼ぐことだけを目的として短期的な売買を繰り返す市場参加者も存在する。


このように、株式市場は異なる投資期間、投資手法の参加者で成り立っているのであるから、そこで形成される株価は不規則で複雑な挙動を示す。


株価の変動を初めて数学的に記述したのはフランスの数学者バシェリエであった。バシェリエは1900年に「投機の理論」という学位論文をソルボンヌ大学に提出した。彼は、その中で、株価の変動をブラウン運動として記述している。


ブラウン運動というのは、植物学者ブラウンが花粉から放出された微粒子を顕微鏡下で観察していたときに最初に発見した不規則な運動のことで、水の中に数ミクロンの微粒子を浮かべたときに水分子の衝突によって起こる。


1905年にアインシュタインがこの運動を物理法則として定式化し、原子や分子の存在の証明のきっかけを作った。バシェリエはブラウン運動という言葉は使っていないが、アインシュタインの定式化の5年前には数学的に同等な理論をすでに株価の変動に応用していた。


株価のブラウン運動理論は、ブラック-ショールズ-マートンのオプション価格付け理論をはじめとする現代数理ファイナンスの基礎となっている。マイロン・ショールズとロバート・マートンはこの功績により1997年ノーベル経済学賞を受賞した。


株価の変動がブラウン運動であれば、それは気まぐれな揺らぎであって、一つ一つの変動同士には相関がない。その場合、株価は全く予測不可能ということになる。


今日では、実際の株価変動は、ファット・テール(大きな変動が頻繁に起きること)、ボラティリティ・クラスタリング(大きな変動は続くこと)、レバレッジ・エフェクト(価格の下落により変動の幅が大きくなること)などといった、無相関で無生物的なブラウン運動とは明らかに異なる性質を持っており、株価の暴騰や暴落を議論するうえできわめて重要な要素であることがわかっている。


これらの性質は株式市場の詳細な実証研究から明らかになってきた。株式市場の実証研究には取引データを用いる。取引データには、国内外の証券会社から出された売買注文データと、売りと買いの注文がマッチして実際に取引が行われた約定データの2種類がある。


東京証券取引所では1日に2千万件を超える売買注文があり、その20~30%程度が約定される。取引はすべてコンピュータ内で行われ、注文時刻や取引が成立した時刻、価格、数量などが自動的に記録される。


研究や実務で利用する際には、証券取引所やデータベンダーからそれらの記録を購入する。また、Yahoo Financeのようなオープンなデータソースもある。


Yahoo Financeは世界中の主要な株式市場を網羅し、各上場銘柄の約定価格を20 分程度の時間遅れで掲載するとともに、ヒストリカルデータとして日(週、月)ごとの始値、最高値、最安値、終値とその日(週、月)の出来高(約定株数)を公開している。


日次、週次、月次データは何年、何十年にも渡る株価の長期的変動の分析や、GDPなどのマクロ経済指標や企業業績と株価の関連を議論するには適した時間スケールである。日次データは、10年分集めても、銘柄あたり2,500件程度のデータなのでExcelでもデータ処理が充分可能である。


一方、暴騰暴落などの株価の大変動はほとんど1日のうちに起きるので、その分析には更に詳細なデータが必要である。日経平均の日次リターンが-5%を下回る大幅な下落は、過去10年間で21回起きている。


そのうち最も大きなものは2008年のリーマンショックからおよそ1ヶ月後の10月16日に起きた-12%の大暴落である。また、21件中11件はリーマンショックから3ヶ月以内に起きている。この3ヶ月での株価の下落は-29%にもなる。


リーマンブラザーズ破綻後、最初の営業日である9月16日の下落が-5%程度であったのに対し、そのおよそ3週間後の10月8日、10日両日には-10%の下落があった。その後、10月14日の13%の反発を挟んで、10月16日の-12%の最大下落が続いている。


これらの暴落時、リーマンブラザーズ破綻の2倍以上のインパクトのあるニュースがあったわけではない。リーマンショック後の金融危機に対する投資家の不安心理が、この期間蓄積、増幅され、特段のインパクトがないニュースをきっかけとして、売りへの群れ行動として世界規模で表出したものと考えられる。


市場の動揺が始まると、銘柄間で価格変動が同期する傾向が強まることがわかっている。また、市場がそのような傾向を示すときには、突発的で大きな下落が連続して起こりやすくなる。


これらの通常とは異なる価格変動の特徴は、大きな損失を避けようとして群れる投資家心理を反映しているものと考えられる。このときの市場の状態は臨界系というシステムの特徴と類似している。


今日のように、グローバルな投資が容易に行える時代には、株式だけでなく、世界中のあらゆる金融資産の値動きの連動性が高まっている。


世界規模の資産価格監視システムを構築することにより、暴落の予兆をいち早く検知すれば、被害が決定的なものになるまでに対策を講じることが可能なはずである。この分野におけるビッグデータ分析の緊急な課題であろう。



増川  純一   (ますかわ  じゅんいち)
成城大学 経済学部 教授
専門は経済物理学

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