江戸は食のワンダーランド

和食の原点
国内出張すると今どこもホテルが取れない。特にひどいのが東京、大阪、京都。福岡、金沢もしかり。外国人観光客がどこも目立つ。2009年、来日目的の一番がショッピングから、日本食に変わった。和食が世界遺産に登録されたのは記憶に新しい。

和食はもはや世界的ブームから、定番に変わりつつあるといえよう。その一方、本家日本から旬が失われ、和食を食べなくなってきているのはなんとも皮肉である。現代の食は何でも揃っている。現代は飽食の時代。四季折々、72侯の旬を美味しくいただくかつての和食とはかえって日本人は縁遠くなっているといえよう。


貝原益軒は『養生訓』の中でこう言っている。「諸(もろもろ)の食物、皆新しき生気ある物をくらうべし」(巻第三の31)

 

江戸っ子は旬を大切にした。「初物75日」という諺が示す通り、その年の走り、つまり初物を食べれば75日間長生きすると信じていた。だから「女房を質に入れても初鰹」などという不埒な川柳が読まれたのである。和食の原点に立ち戻り、江戸の庶民の食事(以後江戸食と略す)を見てみたい。そこは食のワンダーランドである。


江戸の初期は、それまで寒村であった一田舎が日本の中心地となる一大土木事業であった。まず水の確保のための上水路と資材と食料を運搬するための堀を縦横にめぐらした。と同時に、高台を崩し東京湾の埋め立てを次々にした。古地図を見ると、はじめは江戸城の目の前の日比谷まで海が来ていたのだから驚かされる。


まあ想像を逞しくすれば、葦が生える湿地と海が迫る砂埃が舞い上がる大いなるのどかな原風景が広がっていたに違いない。全国から男衆が集まり土木工事が進み、武士は勿論、職人と商人などの町人がどんどん集まり、一大都市に膨れ上がった。


だから西部開拓当時のアメリカと同じで、江戸は女性が少ない男社会であった。18世紀中旬の町方の人口比率は男性30万に対し女性16万から20万人前後で推移していたようだ。肉体労働の男が多い初期の江戸では当然塩気の多い塩っぱい味が必要とされたであろう。また江戸は世界でも有数の巨大都市であった。最盛期は、100万人を優に超えていたといわれている。


江戸食の革命
江戸の食事は男の仕事であった。江戸城も大名屋敷も料理をするのは男性だった。まあ、女子厨房に入らずという感じだったのであろう。しかし庶民の食事をしていたのはやはり女性。ただ長屋住まいの庶民の台所は狭く、火口は限られており、ご飯を炊く、汁を温めるなどであった。元禄以前の初期江戸食は、雑穀や玄米を中心とする質素な食事であった。それに野菜や海藻、江戸前で漁れる魚介類が並ぶ食事であった。


江戸食に革命をもたらした契機はいろいろ考えられるが、次のものが重要であろう。まず第一が、海と川に囲まれた江戸とその後ろに控える広大な関東平野という恵まれた自然である。春から夏にかけては鰹に代表される黒潮系の魚、秋から冬にかけては鮭に代表される寒流系の魚が南下してくる。あらゆる川湖水ではあゆ、うなぎ、どじょう。春の山菜、夏秋冬の近郊野菜。これらの走りの味をこよなく愛したのである。


次に白米革命である。江戸っ子の自慢のひとつは水道水の産湯と白米である。今まで特権階級しか食せなかった白米が元禄になると庶民にまで拡がった。白米は美味しいばかりでなく蛋白質のおかずとの相性もいい。主食が炊いた白米、それに味噌汁、漬物、副菜の野菜やおかず。いわゆる一汁三菜である。ただ白米は旨いが栄養分を捨てているので白米ばかりを常食にしていると脚気、当時の江戸煩いに陥った。これを補うのが糠漬けである。栄誉分豊富だが捨てていた糠の再活用である。


だし革命。日本料理はだしが決め手である。上方は北海道の昆布が北前船で日本海を運ばれてきたアミノ酸文化である。この昆布のだしで関西は薄い味でも旨い食文化である。江戸にはなかなかこの良い昆布が入ってきにくかった。江戸は黒潮に乗った鰹節のイノシン酸文化圏である。この両方を使うと合わせだしといって旨みが倍増する。


現在の鰹節が作られるようになったのが江戸時代の初期。カビを付けることによってタンパク質を発酵させうまみを増幅させた日本の知恵である。燻煙法の発明により安価な鰹節が庶民にも普及していった。冷奴やお浸しに添え、だし汁をとるなど庶民の食卓を豊かにした。


調味料革命。大豆を発酵させたのが味噌と醤油である。味噌は元々、戦の非常食として発達した。だから強い武将の居る土地は旨い味噌がある。醤油は大豆と小麦を発酵させた調味料である。江戸のはじめは何でも京都・大阪の上方からのくだりものであった。


江戸から上方へ逆流するものはくだらないものである。当初は上方流の薄口醤油しかなく、高価な下り醤油であった。江戸の初期の庶民の調味料は手に入りやすい塩と味噌。肉体労働の多かった江戸庶民はしょっぱい味を好んだのであった。17世紀の終わりから18世紀にかけて、江戸は全国から商人や職人、参勤交代の武士らが集まり発展した。


ここで登場するのが上方の薄口醤油に対して、江戸好みの濃口醤油である。初期にはほとんどの醤油が上方からのものであったが、このころになると野田や銚子など関東の地廻り濃口醤油が主流になり、一気に庶民に広がり、これが江戸食の基本となった。


江戸グルメの開花
これと時を同じくして外食産業が花ざかりとなる。江戸のはじめは外食できるお店はまったくなかった。家庭で食べるか、雇われているお屋敷かお店のまかない飯を食べるかであった。しかし次第に天秤棒にしじみ、あさり、塩魚、野菜、漬物、醤油、酢、納豆、豆腐、煮豆、佃煮などを載せた棒手振りの商売が繁盛した。彼らは長屋にまで入り込み調理を済ませた惣菜を売る菜屋も重宝がられた。

 

かようにご飯を炊き、味噌汁を温め、おかずは出前コンビニの菜屋や棒手振りに家まで運んでもらう便利な社会だった。一方、外食産業も人口の増大と調味料の発達とともに激増していった。蜀山人の書いた随筆集には『一話一言』には「五歩に一楼、十歩に一閣、みな飲食の店ならずという事なし」(五歩歩けば店が一軒、十歩歩けば大きな店が一軒、これみな飲食店である)とある。


刮目するのは屋台文化である。濃口醤油の出現によりまず屋台の蕎麦屋が、そして屋台の天麩羅、おでん、寿司屋と、江戸時代はファーストフードのオンパレードであった。比較的高価だった酢が、廃物利用の酒粕から三河で酢を作り出すと江戸後期には一気に寿司屋台が爆発した。粕酢は安価な上に自然な甘味が砂糖を使わずにすし飯に適したのだった。


3秒の芸術と言われる握り寿司。江戸前の海で漁れるシラウオ、穴子、ハマグリ、コハダ、海老、マグロの醤油づけ・・・まさにさあさあ、江戸前の寿司喰いねぇなのだ。それと、うな丼も忘れてはならない。醤油と味醂のたれに浸けて焼いた蒲焼は江戸食文化の傑作である。これも野田と調子の濃口醤油と流山の白みりんのおかげでもある。


最後に江戸グルメを眺めよう。歌川広重の描いた月見の名所高輪『東都名所 高輪二十六夜遊興之図』をみると、すぐ向こうが船の浮かぶ海。海岸縁にはござを敷いた今で言う茶店風海の家が並ぶ。そして数々の屋台。果物を売る水菓子屋台、寿司屋台、砂糖と白玉が入った冷水屋台、いか焼き屋台、天麩羅屋台、二八蕎麦屋台、麦湯屋台、団子屋台、汁粉屋台、などなど。そこには楽しげな粋で通な江戸っ子が集う。現代を凌ぐ江戸グルメである。まさに江戸は食のワンダーランドなのである。



参考文献:『養生訓』(貝原益軒  現代講談社芸術文庫)、『逝きし世の面影』(渡部京二  平凡社)、『大江戸 食べ物歳時記』(永山久夫  グラフ社)、『江戸は美味い』(竹内誠  小学館)、『江戸グルメ誕生』(山田順子  講談社)、『江戸めしのススメ』(永山久夫  メディアファクトリー)、『江戸の暮らし春夏秋冬』(歴史の謎を探る会)、『実見江戸の暮らし』(石川英輔  講談社文庫)、『大江戸生活事情』(石川英輔  講談社文庫)、『歴史地図大江戸探訪」(大和書房)、『江戸散歩・東京散歩』(成美堂出版)、『大江戸今昔マップ』(新人物往来社)


三宅  宏 (みやけ  ひろし)
キッコーマン飲料㈱ 執行役員
ドライ営業本部長 兼 副プロダクト・マネジャー室長
慶応大学大学院修士課程修了後、キッコーマン㈱入社。東京販売部、マーケ
ティング部流通企画課、京都支店量販営業担当、酒類事業本部輸入酒類企画室、マーケティング室宣伝課、プロダクト・マネージャーなどを経て、現職。

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